太陽に抱かれて

「モネは観に行ったのか」

 そこへ通い始めて、四日目のことだった。
 昼食をとりながらぼう、と画家を見つめていたももに飛んできたのは、低くくぐもった声だった。
 往々にしてフランス語とはもごもごとしているように聞こえるものだが、彼もまた他聞に漏れず、風に聞き逃してしまいそうな声だったのは言うまでもない。

 ハッとして、ももは咀嚼していたパンオショコラを慌てて嚥下しながら、いいえ(ノン)、と答える。
 男は、そうか、と口にしただけだった。

 ももは拍子抜けして、目を瞬かせた。
 メインの鴨のローストを食べずに、アントレ(前菜)で満足するな。そんなふうに馬鹿にされると思っていたのだ。

 男は一瞥も寄こさない。それどころか、変わらずにパレットから絵の具をすくってはカンヴァスに載せていく。
 出て行けということもなければ、名前を聞いてくることもない。一見すれば不躾な態度。だが、ももはかえって自分への無関心さに言いようのない安堵を感じていた。

 なめらかに布地を滑る筆を眺めながら、彼女はさく、ともぱり、とも絶妙な音を小さく立てながら、パンへとかぶりつく。
 豊かなバターとカカオの味を舌に転がして、絵の具が形を織り成していくのを待ち侘びることにした。


「ボンジュール、ムシュー」

 ももがパン・オ・ショコラの最後のひと口を食べ終えようとしたとき、静かな楽園に新たな風が吹き込んだ。
 丘へと上がる階段を振り返る。
 現れたのは、一人の男だった。
 仕立ての良い三つ揃いのスーツに、撫で付けられた髪と小さな顔を埋め尽くすサングラス。手には大きなアタッシュケースが提げられている。

「これは失敬、お取り込み中かな?」

 まさか、自分のほかに訪ねてくる者がいるとは。
 画家のパンの包み紙を手にする自分を見るや、その珍客は小さく口笛を吹いて、俳優さながらに驚いたような仕草をしてみせる。
 ノン(いいや)、と間髪入れずに答えたのは画家だった。

「そうか。それは残念、とでも言うべきかな?」
「……ふざけるのは止してくれ。それと、あの話は断ると言ったはずだ、ジャン=クロード」

 にべもない画家に、ジャン=クロードといかにもフランス人らしい名で呼ばれた客はサングラスをとって、胸元に掛ける。まみえた顔はどこか洗練された貴族のような趣だ。

「まあまあ、そうとは言わずに。今日は手土産もある。少しお茶でもしようじゃないか」

 気さくな言葉とともにひょい、と掲げられたアタッシュケース。ももは男がカンヴァスから筆を離したのを見逃さなかった。
 渋々といった様子ではあったが、筆を缶に投げ入れた男に、しめたとばかりに満足げな笑みを浮かべるスーツの麗人。
 呆然と二人の男を眺めるももの前で、画材置きと化している簡易椅子にパレットを置くと、画家は腰につけていたタオルで手を拭い、「来い」と告げた。

「ボンジュール・マドモワゼル」

 丁寧に笑みを向けて、一人の紳士が立ち尽くすもものすぐそばを通り過ぎる。ふわ、とギャラリー・ラファイエットで嗅いだオードパルファムの香りが掠めて、思わずシルエットの整ったスーツの背と草臥れたシャツのーーそれでいてがっしりとしたーー背を見比べた。
 一体、この客人はどんな人間で二人の間にある関係はなんなのだろうか。この数日、一切人が訪ねてくることはなく、また、丘から降りて誰かとコミュニケーションを図ろうとする素振りも見せなかった男が名を呼んだ、この客人は、一体。

 二つの背は緑の海原を渡っていく。

 ぴしゃり、とアトリエのドアを閉められたところで、ももは深く息をついた。

「……モネの庭、行ってみようかしら」
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