センチメンタル・ファンファーレ



「あまりお腹すいてないなら、バーで軽く食べようか。そろそろ開いてる頃だし」

カフェで食べたレアチーズケーキがまだ消化しきれていない、と答えたら、縁くんがそう提案してきた。

「バー!? 車なのに?」

「だから俺は飲まないよ。でも飯がうまいから」

賑わう通りと住宅街の境目にある雑居ビルの二階に、その店はあった。
狭い階段を上っていく途中で、激しいピアノの音が聞こえ始める。
知らない曲だけど、リズムから推測するとジャズかもしれない。

「マスターが弾いてるんだ」

興味津々の私に、扉の前で縁くんは言う。

「マスターの家は音楽一家らしいよ。で、マスターの甥っ子さんと篠井さんが最近結婚した」

「え! 篠井女流?」

「そ、川奈さんと“仲良し”の篠井さん。もう秋吉さんだな。この前連盟から正式発表もあったから、確認してみれば?」

縁くんがニヤニヤしながらドアを開ける。
同時にピアノの音が大きくなった。
音の波に逆らうように店内に入ると、ピタリとピアノの音が止む。

「いらっしゃい」

……と言ったかどうか。
あの激しい音を奏でていたとは思えない背中の丸まったおじさんが、のそのそとカウンターの中に消えていく。
虚ろな表情と骨張った体型のせいもあり、失礼ながらこの雑居ビルに棲みついた妖怪みたいに見える。

マスターがいなくなってすぐに、今度はBGMでジャズが流れてきた。
ボリュームはごく抑えられていて、そのわずかな音さえ敷かれたカーペットに吸収されたように、店内は静かだった。

カウンターから離れた一席に腰を下ろし、縁くんはメニューを広げる。
黄味がかったライトは低めに設置されていて、手元以外はほの暗い。

「とりあえず適当に頼むから、弥哉は好きなお酒頼んで」

「飲んでもいいの?」

「どうぞ」

「じゃあ、遠慮なく」

メニューから顔を上げると、マスターがそろそろとやってきた。

「ナスのミートソースグラタン、生ハムとケッパーのパスタ、ゴボウフライ。それからウーロン茶」

「あと、アマレットひとつ」

丸まった背中が遠ざかると、小声で縁くんに問いかけた。

「甥っ子さんと篠井女流が結婚したってことは、マスターも将棋関係者?」

「いや、関係ないよ。篠井さんの旦那さんも会社員だし。俺がここ知ったのもたまたま」
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