センチメンタル・ファンファーレ
カウンターの中で、マスターは手際よくお酒と料理を用意している。
「楽器弾けるっていいなあ」
「弥哉は何もできないの?」
「縁くんはできるの?」
「まあ、ピアノくらいは」
「え! どのくらい?」
「どのくらいって言われても……」
縁くんはさっと無人の店内に目を走らせてから、席を立った。
「マスター、少しだけピアノ借りてもいい?」
マスターが無言で後ろの機械に手をやると、BGMが止まった。
縁くんはアップライトピアノの蓋を開けて赤いキーカバーを外す。
そして、イスの高さを何度か調整してから、初手を指すときと同じような動きで鍵盤に手を乗せた。
キラキラと輝くような高音から始まった曲は、昔ドラマの中で使われていたものだった。
主人公が、亡くなった飼い猫と、夢で束の間の再会を果たすシーンで印象的に流れていて、当時小学生だった私もそのあたたかくも切ないメロディーに涙を誘われた。
徐々に力強く感情的になっていく右手を、落ち着いた左手がやわらかく支える。
半袖から伸びた腕はたくましく躍動して、魂を指先へと送り込んでいるように見える。
ピアノは指先だけでなく、心も身体も全部を使って演奏するんだ、と初めて思った。
寄せたり返したり、音の波は縁くんから店内の隅々まで広がって、室内の色を塗り替えていく。
花からこぼれた雫のようなメロディーと、やわらかい土のようなアルペジオに誘われ、つい目を閉じて身を任せた。
噛み締めるように最後の和音が落とされて、空気に染みていった。
始めた時と反対に、縁くんはキーカバーをしてから蓋を閉める。
同時に控えめなBGMがふたたび流れ出す。
「すごいね」
席に戻ってきた縁くんに、私は素っ気なく伝えた。
髪も肌も何もかも、音が届いた部分すべてに触れられたみたいで、表現しがたい恥ずかしさと背徳感があった。
そんな私を見て、彼はふふん、と笑う。
「将棋に例えたら、アマ四段程度だけどね」
その背後から、マスターが飲み物と料理を運んできた。
この店は飲み物も料理もすべて、提供と同時にその場で支払うシステムらしく、お財布から五千円札をマスターに渡す。
「俺のピアノに乾杯してくれる?」
「もちろん」
カチッとグラスを合わせ、見た目は縁くんのウーロン茶とよく似た琥珀色のお酒を口に含んだ。
「わ、これおいしい!」
杏仁のお酒だというアマレットは少し強いけれど、氷の冷たさと合わせて爽やかに喉を通っていった。
アルコールと甘味が喉を焼く感覚も心地よい。
「ここ、酒も食べ物も何でもうまいよ」
自慢気に縁くんがウーロン茶を傾ける。似たようなセリフをいつだったか、まったく違う場所で聞いたような気がする。
「この“ミックスナッツ”もおいしい?」
「試してみれば?」
ミックスナッツは、きれいなカッティングのガラスの器に乗って、上品にやってきた。
「まあ、“ミックスナッツ”は普通においしいよね」
熱そうにナスのミートソースグラタンを食べながら、縁くんはうんうんと頷いた。