かりそめ婚ですが、一夜を共にしたら旦那様の愛妻欲が止まりません
私も名刺を、と思ってバッグに手を伸ばしかけたけれどやめた。彼は仕事以外の相手だし、わざわざ名刺交換する必要もない。ただバーで話しかけてきただけの人だ。

「ありがとうございます」

一応渡されたことにはお礼を言っておく。

「五年前に独立したんだ。まだまだ小さな会社だよ。それで、君のクライアントはこの商業施設にあるのかな? それとも別の場所で仕事した帰りに一杯ってとこ?」

「半分当たりで半分外れです」

「ふふ、どっちか半分当たりなのかな? 君って面白いね」

別に面白いことを言ったつもりはないのに、石野さんは楽し気だ。なんとなく気まずくてグラスに口をつけると、辛口のマティーニに舌が焼けた。そして胃の底に火がついたようになって小さく噎せてしまった。

「大丈夫?」

「え、ええ、すみません」

ハンドタオルで口元を押さえて数回咳きこんでいると、石野さんが私の背中を上下にさすり、もう片方の手がカウンターに置いた私の手にそっと重なった。驚いて手を引こうとしたけれど、それを逃がすまいとばかり強く握られて振りほどけない。

「もう大丈夫です」

だからその手を離してください。と目で訴えると、石野さんはそれを理解したのか小さく笑って身を引いた。
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