自分
前回はフェミニズムの話の一例としてKuTooから話を広げようとしたら、KuTodの話から服装規定の話だけ広がっちゃいました。

こういうことが多々あるんだろうなと心の内に感想を秘めておいてください。

浅く広くがモットーで自分の認知出来る範囲で動きたいと思います。

続きも服の話にしようかな?どうしよう?と考えながら書いていきたいと思います。

そもそも何故服装の色や装飾品の有り無しを決められるのか、その理由として僕達が教えられるのはビジネスマナーであったり失礼のないようにだぅたり、不快な思いをさせないようにだったり良く見られるようにだったりします。

これらがどこからくるのか?と考えるとルールに対する絶対的な服従なのでは?

とりあえずルール守ろう、良い子にしないといけない、面倒ごとは嫌だから何となく従おう、ルールを破ったらダメ!しつけをきちんとしないといけない、他人に迷惑をかけてはいけない…こういった漠然とみんなが守っているマナーや常識を絶対的なものとして考えてる人が多いのでは?

ルールは変えていい、常識も変えていい、というか法治国家において法律以外に守るべきものってなんだよ?法律も変えていいんだよ?

だけど、変えた後に待ってるのが何がわからないから怖い、ならこのままでいいや!が今の日本では?海外は知らない、ここは日本だし俺が住んでいる場所は日本なので。

人口に対して人口密度が高い日本では法律以外のマナーや常識が重要視されるのはわかります。

一人一人のパーソナルエリアが限りなく狭いので、自分達が不快なものを他人に辞めさせたい気持ちもわかります。

でも、他人に辞めさせることは自分も回り回って辞めないといけない、誰かが他人に貴方の書いた絵気持ち悪い!私達は物凄く不快になってる!と言われ辞めらさせられた人はその人達と同様に誰かの何かを辞めさせようとするのでは?

なので他人に何かを辞めさせたりルールを絶対視したりすることは物凄く生き辛さを感じるのでは?

現代の技術は物凄く発展し現状のルールが技術に追い付けず対応出来てません。

否が応でもルールは変わっていきます。
この時代の境目において自分の主張を他人の目を気にして言わずにおくと、生き辛い時間が長引くのではないでしょうか?

KuTooのようにみんなが漠然としたイメージを抱えていた物が気付いてないだけかもしれません。

何かを変えるきっかけになるかもしれません。
メディアは扱ってくれなくても支持者は付き変わるかもしれない。

こういう形で大きくは変えれなくても需要があれば変わるかもしれない。

と思い僕もこんな風に書き始めました。
偉そうに言ってはいますが自分はその第一歩の最中です。

何かが変わるかもしれない中で動くのは大切かな?と思います。

物凄いまた支離滅裂になってないでしょうか?
話の脱線具合エグくないでしょうか?

見直すのは恥ずかしいのでそのままで。笑
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