暗闇の中で
小泉は教壇に立ち、静かにノートを開いた。教卓の上には、秋生から届いたばかりの、苦い痛みに満ちた日記が置かれている。
「今日、ある男がこんな話をした。約束を破られた虚しさを埋めるために、往復の切符を無駄にし、ただ電車を乗り継いで彷徨った男の話だ」
小泉は教壇を見回した。生徒たちの視線がスマホからわずかに上がる。
「その男は、悲しみを埋めるためにどこへ行くべきかという問いに対し、周囲の大人たちからこう教えられたそうだ。――『そんなに寂しいなら、風俗店へ行けばいい』と」
教室にざわめきが走る。小泉は声を荒らげず、しかし厳粛に続けた。
「君たちはどう思う? 誰かとコーヒーを飲み、言葉を交わし、その人の体温や匂いを感じる『時間』を求めた男に対して、金を払って身体の接触を買う場所へ行けと言う。これは単なる選択肢の提示か? それとも、人間同士の心の繋がりを、欲望の交換という事務手続きにまで格下げする『心の殺人』か?」
多くの人間は、トラブルを恐れるあまり、本質的な痛みから逃げようとする。約束を破られて傷つくなら、その傷を癒すために「確実な快楽」というシステムへ誘導する。それは、今の社会が愛用している「安全装置」の最悪の形だ。
「いいか、今の大人たちは『目的』と『手段』を混同している。男が求めていたのは、特定の誰かと過ごすという『唯一無二の物語』だ。それを、『性的な充足』という代替可能な『機能』に置き換えていいはずがない」
Facebookで秋生の告白に「いいね」を押した連中。彼らは、秋生の痛みさえも「不幸なエピソード」というコンテンツとして消費しているに過ぎない。その「いいね」は、共感ではなく、安全な場所から他人の傷口を眺めるという無責任な娯楽だ。
「約束を破られた怒りや悲しみを抱えて、あてもなく電車を降り、改札を潜る。その馬鹿げたほどの純粋さは、現代の『効率的な道徳』からすれば、ただの非効率なノイズだろう。だが、そのノイズの中にこそ、人間であることの証がある」
小泉は生徒たちの目を見つめた。
「風俗店に行けば、確かに身体的な欲求は満たされるかもしれない。けれど、男が求めていたコーヒーと、彼女との他愛のない会話、約束の重み――それらは金で買えるシステムの中にはどこにもない。君たちが誰かを想い、その想いに裏切られ、それでも自分自身でその感情を抱きしめて歩く。その痛みこそが、君たちを大人にする。システムに逃げ込むな。馬鹿みたいに傷つき、その痛みから逃げずに考え続けろ。それこそが、僕たちが取り戻さなければならない『本来の道徳』なんだ」
教室の外で、チャイムが鳴る。その無機質な電子音が、秋生がかつて突きつけられた「システムの拒絶」と重なった。
「さて、次はどうする? 約束を破られても、システムに逃げ込まずに、自分の言葉で誰かを愛し続ける覚悟はあるか。……もしあるなら、その馬鹿げた物語の続きを、僕たちで書いていこうじゃないか」
小泉はそう言うと、秋生の日記を閉じ、黒板に大きく一つの問いを書いた。
**「『心の代用品』で、人間の傷は癒せるのか?」**
大人たちが「いいね」で誤魔化してきたこの問いに、今度は君たちが答える番だ。
「今日、ある男がこんな話をした。約束を破られた虚しさを埋めるために、往復の切符を無駄にし、ただ電車を乗り継いで彷徨った男の話だ」
小泉は教壇を見回した。生徒たちの視線がスマホからわずかに上がる。
「その男は、悲しみを埋めるためにどこへ行くべきかという問いに対し、周囲の大人たちからこう教えられたそうだ。――『そんなに寂しいなら、風俗店へ行けばいい』と」
教室にざわめきが走る。小泉は声を荒らげず、しかし厳粛に続けた。
「君たちはどう思う? 誰かとコーヒーを飲み、言葉を交わし、その人の体温や匂いを感じる『時間』を求めた男に対して、金を払って身体の接触を買う場所へ行けと言う。これは単なる選択肢の提示か? それとも、人間同士の心の繋がりを、欲望の交換という事務手続きにまで格下げする『心の殺人』か?」
多くの人間は、トラブルを恐れるあまり、本質的な痛みから逃げようとする。約束を破られて傷つくなら、その傷を癒すために「確実な快楽」というシステムへ誘導する。それは、今の社会が愛用している「安全装置」の最悪の形だ。
「いいか、今の大人たちは『目的』と『手段』を混同している。男が求めていたのは、特定の誰かと過ごすという『唯一無二の物語』だ。それを、『性的な充足』という代替可能な『機能』に置き換えていいはずがない」
Facebookで秋生の告白に「いいね」を押した連中。彼らは、秋生の痛みさえも「不幸なエピソード」というコンテンツとして消費しているに過ぎない。その「いいね」は、共感ではなく、安全な場所から他人の傷口を眺めるという無責任な娯楽だ。
「約束を破られた怒りや悲しみを抱えて、あてもなく電車を降り、改札を潜る。その馬鹿げたほどの純粋さは、現代の『効率的な道徳』からすれば、ただの非効率なノイズだろう。だが、そのノイズの中にこそ、人間であることの証がある」
小泉は生徒たちの目を見つめた。
「風俗店に行けば、確かに身体的な欲求は満たされるかもしれない。けれど、男が求めていたコーヒーと、彼女との他愛のない会話、約束の重み――それらは金で買えるシステムの中にはどこにもない。君たちが誰かを想い、その想いに裏切られ、それでも自分自身でその感情を抱きしめて歩く。その痛みこそが、君たちを大人にする。システムに逃げ込むな。馬鹿みたいに傷つき、その痛みから逃げずに考え続けろ。それこそが、僕たちが取り戻さなければならない『本来の道徳』なんだ」
教室の外で、チャイムが鳴る。その無機質な電子音が、秋生がかつて突きつけられた「システムの拒絶」と重なった。
「さて、次はどうする? 約束を破られても、システムに逃げ込まずに、自分の言葉で誰かを愛し続ける覚悟はあるか。……もしあるなら、その馬鹿げた物語の続きを、僕たちで書いていこうじゃないか」
小泉はそう言うと、秋生の日記を閉じ、黒板に大きく一つの問いを書いた。
**「『心の代用品』で、人間の傷は癒せるのか?」**
大人たちが「いいね」で誤魔化してきたこの問いに、今度は君たちが答える番だ。