暗闇の中で
秋生は、スマートフォンの画面を指で激しく叩き、文学投稿サイト『野いちご』のガイドラインを表示させた。そこには「健全な作品作り」を推奨する、無機質で清潔な言葉が並んでいる。
「清潔か……。吐き気がするな」
秋生は独りごちた。彼らが排除しようとしているのは、単なる性的な単語ではない。人間の肉体が持つ、泥臭くて、時に滑稽で、抗いがたい「生々しさ」そのものだ。
『野いちご』の編集方針は、どこまでも理想化された少女像を求めている。陶器のように滑らかな肌、整った歯並び、完璧な均衡を保った容姿。彼らが提供しているのは、物語ではなく、システムが許容した「安全なファンタジー」だ。
「彼らは分かっていない。本当の美しさとは、そんなテンプレートの中に収まるものじゃない」
秋生は、かつて自分が心惹かれた相手のことを思い浮かべる。
腰が曲がり、口元には絶えず唾が溜まり、前歯が突出したおばあさん。今の『野いちご』の基準なら、登場させることすら憚られるような、非効率で、歪な肉体を持った女性。だが、彼女が発する声には、この世のどんな美声よりも深く、切ない響きがあった。
「たとえどれほどスタイルが悪くても、どれほど外見が崩れていようとも、その人が発する一言の声に、魂が震えることがある。その歪さこそが、その人が生きてきた歴史であり、存在の証なんだ。それなのに、なぜ物語の世界からその『歪さ』を消し去る必要がある?」
秋生はキーボードを叩き、執筆中の小説『雨の日ノ女』の続きに、あえてその「唾の匂い」を書き加えた。
今のシステムは、全てを「均質化」しようとしている。iPhoneのUIが使いやすさを優先して個性を削ぐように、『野いちご』のガイドラインもまた、読者を傷つけないために、人間の本質的な「脆さ」や「醜さ」を削除しようとしている。しかし、それは文学ではない。ただの、耳当たりの良い宣伝文句だ。
「綺麗な口、綺麗な唇、整った歯。そんなものばかりを並べて何が楽しい? 物語に必要なのは、唾の混じった吐息であり、ひび割れた声であり、誰かに見せられないような傷跡なんだ」
秋生は憤りとともに、Facebookにこう書き込んだ。
> 「綺麗なものだけが文学じゃない。唾を垂らし、歯が欠け、曲がった腰で這うような、そんな汚れた肉体に宿る声こそが、人の心を打つんだ。それを排除して、何が物語だ。僕は、システムが嫌うその『歪な人間』を、これからも書き続ける」
>
投稿した瞬間、またしても「いいね」という無機質な拍手が鳴る。だが、秋生は無視した。彼らが求めているのは、システムという名の清掃車が掃除しきれなかった、僕たちの魂の残り香だ。
「いいさ。排除されるなら、もっと深く、もっと泥臭く書いてやる。君たちがどれほど『清潔』な檻を作ろうとも、僕はその隙間から、唾の飛ぶような『生』の言葉を流し込んでやるからな」
秋生は、執筆中の画面を見つめる。そこには、完璧に整った少女ではない、誰にも愛されないはずの、しかし誰よりも美しく響く声を持つ女の姿が、鮮明に描かれていた。システムが排除しようとするその歪さを抱きしめてこそ、僕たちは本当の意味で「人間」として物語を紡げるのだと信じて。
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