暗闇の中で
小泉は、窓の外のどんよりとした空を見上げた。今日は晴れ時々雨。明日は晴れるという予報だが、教室の中には、湿った重たい空気が漂っていた。
彼は、秋生が持ち込んだ「告白」という名の、あまりにも生々しく、破壊的なノートを机に置いた。
「君たちは、愛というものをどう考えている? 損得勘定か、それとも互いのメリットを最適化するシステムか。――だが、今日話すのは、システムが完全に崩壊した場所で、ある男がとった行動についてだ」
生徒たちは、スマートフォンの画面を消した。小泉の声が、教室に響く。
「ある男がいた。千葉駅で彼を助けてくれた、一人の女性がいた。コロナで生活が困窮し、娘の学費を稼ぐために必死に働く、評判の良い女性だった。男は彼女に強く惹かれた。だが、そこで彼がとった行動は、現代の道徳から見れば『狂気』そのものだ」
小泉はあえて言葉を切り、生徒たちの表情を一人ずつ確認した。
「彼は彼女に触れ、彼女が戻したものさえも受け入れた。感染のリスクがあり、社会的な規範に背き、店と書面を交わしてまで、彼はその『生々しさ』を求めた。それを君たちは『気持ち悪い』と思うか? それとも、『人間であることの証』だと思うか?」
現代のシステムは、他者の体液を忌避し、飛沫を恐れ、触れ合いを契約で管理しようとする。しかし、秋生の取った行動は、その清潔な檻を内側から爆破するようなものだった。「責任は自分で負う」という捺印。それは、自分の生を誰にも管理させないという、最後の抵抗だ。
「彼女は彼を許した。昭和という時代、あるいはシステム以前の人間関係には、このような理屈を超えた許容があった。それは、現代の損得計算で動く大人たちには到底理解できない『痛み』と『熱』の共有だ」
小泉は黒板に大きな文字で書いた。
**【不潔と愛の境界線】**
「彼は約束を破られたオンラインの彼女という『システム』を捨て、この生々しい現実を選んだ。それがたとえ、世間から『馬鹿』と罵られ、白い目で見られる道であってもだ。彼は、自分の責任を自分で引き受け、その代償として『他者の生』そのものに触れようとした」
教室は静まり返っていた。生徒たちの目の中に、これまで見たことのないような、戸惑いと、かすかな憧れのような光が宿っている。
「良いか、これは単なる逸話じゃない。君たちがこれから出会うであろう、管理され、消毒された、退屈で安全な世界に対する警告だ。誰かと本当に繋がるということは、相手の汚れた部分までをも抱きしめ、自分の人生を懸けるということだ。今の社会は、それを『気持ち悪い』と言って排除する。だが、その排除の先にあるのは、誰もいない、冷たい無菌室だけだ」
小泉は、秋生のノートを閉じた。
「彼は馬鹿かもしれない。だが、少なくとも彼はシステムの中で生きる人形ではない。君たちは、一生システムの中で安全に生きるか、それとも彼のように、リスクを背負ってでも、生身の誰かに触れようとするか。どちらの物語を書きたい?」
外では、雲の切れ間から強い日差しが差し込み始めた。明日は晴れる。だが、小泉が求めているのは、システムという曇り空を突き破るような、生徒たち一人ひとりの「生々しい決断」だった。
彼は最後に付け加えた。
「これは小説じゃない。君たちの明日の話だ」
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