暗闇の中で
## タイトル:『軌道上の嘔吐、あるいは聖なる汚辱』
総武線快速、千葉発の午前八時。
冷え切った窓の外には、朝焼けすらも無機質に反射するビルの群れが並んでいた。春香を失った後の世界は、まるで色を剥ぎ取られた回路図のように、どこまでも冷たく、滑らかだった。
秋生は吊り革を握りしめ、いつものように自分の居場所——そのわずかな隙間——で目を閉じていた。
その時だった。車内に異様な湿り気を帯びた音が響いた。
「うっ……」
隣に立っていた若い女が、堪えきれずに身体を折り曲げた。喉元から絞り出されたのは、胃の奥底から込み上げる悲鳴にも似た嘔吐だった。
車両の空気は一瞬にして凍りついた。
周囲の中高生やサラリーマンたちは、まるで磁石に弾かれるかのように一斉に距離を取った。彼らの瞳には明確な忌避が宿っていた。関わりたくない。巻き込まれたくない。自分たちの完璧に整えられた日常に、この「不潔なエラー」を侵入させてはならない。彼らはスマートフォンを高く掲げ、あたかもその惨状を録画することだけが正義であるかのように、無機質な視線を送っている。
秋生は、その静寂を切り裂くように歩み寄った。
「大丈夫ですか」
秋生の問いかけに、女は青白い顔を上げ、すがるような目で彼を見た。
駅のホームに滑り込む電車。秋生は彼女の肩を支え、混雑するホームへと連れ出した。しかし、彼女の限界は、トイレの扉の前で尽きた。
――無情にも、彼女の口から溢れ出した濁流が、秋生のシャツと、剥き出しのホームのタイルを汚した。
周囲の視線が突き刺さる。それはかつてないほどの、社会からの冷徹な蔑視だった。しかし、秋生にとってそれは、春香を失ってからずっと感じていた「不在」が、生身の重さとして形を成した瞬間に思えた。
女は涙を流しながら、必死に謝罪した。
「……ごめんなさい、本当に……ごめんなさい……」
秋生は、汚れた自分の服を無造作に拭いながら、彼女の震える手を取った。その手には、駅の公衆トイレの冷たい匂いと、彼女自身の弱さが混じり合っていた。
「謝らないでほしい」
秋生は、彼女の瞳を真っ直ぐに見つめて言った。
「変態かもしれないけれど、僕は今、この汚物まみれの君を、心から愛しいと思っているんだ」
かつてなら、警官が飛んできただろう。あるいは、誰かが「不審者」として通報していただろう。だが、その日のホームは、何故か秋生の言葉を吸い込み、どこまでも静かだった。それは、かつて春香と過ごした、あの偶然の積み重なる時間と同じ——誰にも管理されていない、ただ二人の間だけに存在する聖域。
秋生は彼女を汚れたまま抱きしめた。
オンラインで繋がる彼女たちが、約束を破り、システムの中で安全に消えていく中、目の前で嘔吐し、僕を汚したこの女こそが、世界で最も「確かなもの」に思えた。
この汚れは、洗っても落ちないだろう。だが、秋生はそれを落とそうとも思わなかった。
総武線快速は、何事もなかったかのように走り去っていく。残されたのは、吐瀉物の匂いと、春香の幻影さえも吹き飛ばすような、生身の人間の熱だけだった。
秋生は思った。
約束を破る契約社会など、もういらない。この嘔吐の果てにこそ、僕が探し求めていた、何一つ取り繕う必要のない「居場所」があるのだと。
秋生は彼女の手を引いて、出口のない駅の階段を上り始めた。その背中は、どんな洗練されたシステムよりも、ずっと人間らしく、泥臭く揺れていた。
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