暗闇の中で
秋生の脳裏に、かつて何度も聞いた懐かしいアナウンスが響く。
「お客様の中に、お医者様、あるいは看護師の方はいらっしゃいませんか――」
あの頃の車内は、まだ「共同体」だった。医者は名乗りを上げ、車掌は奔走し、周囲の乗客は一丸となって患部を囲い込み、その命を守ろうとした。そこには、金銭や損得を超えた「生を救うという約束」が、暗黙のうちに存在していたのだ。
だが、今はどうだ。
今の医者や看護師は、電車の中で名乗り出ることを躊躇する。助けた結果、もしもの事態になれば訴訟のリスクを負わねばならないし、何より、その行為には一銭の報酬も発生しない。今の医療システムは、命を救うことすらも「業務」という契約の枠の中に閉じ込めてしまった。だから、誰も動かない。誰も「お医者様」ではないふりをして、スマートフォンを見つめ続けている。
「……誰も来ないからこそ、僕のような『変態』だけが、唯一の救い手になるというのか」
秋生は自嘲した。ホームに崩れ落ちた彼女の身体を支えながら、彼は震えを感じた。今、彼女が吐き出したものが、単なる酔いによるものなのか、それとも死に直結する発作の予兆なのか。今の秋生には判断できない。
もしこれが、救急の処置を必要とする病気だったとしたら。秋生が「愛おしい」などと感傷に浸っている間に、彼女の呼吸は停止するかもしれない。
「これは、道徳以前の問題だ」
秋生は彼女の背中をさすりながら、静かに、しかし激しい怒りを覚えた。
もし僕が彼女に触れ、彼女が最悪の事態になったら、周囲の人間は僕を「変態」として引きずり出すだろう。だが、何もしなかった彼らは「正義の傍観者」として、涼しい顔で目的地へ向かう。
「死」という極限の場面において、今の人間たちは、自らの魂をシステムという防波堤の裏側に隠している。
秋生は、彼女の脈を指先で探った。かろうじて、熱い鼓動が指に伝わってくる。
「いいか、今の医者たちが金にならない命を切り捨て、周りの連中がトラブルを恐れて見て見ぬふりをするなら、僕は何度だって『変態』になってやる」
それは、秋生なりの「医学」だった。システムに救えないのなら、システムが禁じる方法で触れ、その命の温度を確かめること。たとえそれが、社会的な死を招く一歩だとしても。
「もし、この子が今、ここで死にそうになったら……」
秋生は周囲を見回した。誰も目が合わない。皆、画面の中の虚構に必死にしがみついている。
「誰も助けないというのなら、僕がこの子の『医者』になる。ただし、報酬は金じゃない。この子が生き抜いたという、ただそれだけの命の対価だ」
秋生はシャツを脱ぎ、彼女の冷たくなった額を拭った。周囲の軽蔑の視線が、秋生の背中に無数の棘となって突き刺さる。しかし、秋生は構わなかった。システムに負け、約束を破られ、技術さえも奪われた僕たちが、それでも人間であるためには、この「狂気」を抱え続けなければならないのだから。
「さあ、どっちだ。僕が変態として警察に連行されるか、それともこの子が僕の手の中で息を吹き返すか。――どちらがこの国の『道徳』として正しいのか、誰か教えてくれ」
秋生の問いかけに、ホームを吹き抜ける風だけが、冷たく返事をした。今の大人たちは、命の危機にすら「計算」を持ち込む。その絶望的な寒さに震えながら、秋生は彼女の鼓動が強くなることだけを、祈るように信じていた。
「お客様の中に、お医者様、あるいは看護師の方はいらっしゃいませんか――」
あの頃の車内は、まだ「共同体」だった。医者は名乗りを上げ、車掌は奔走し、周囲の乗客は一丸となって患部を囲い込み、その命を守ろうとした。そこには、金銭や損得を超えた「生を救うという約束」が、暗黙のうちに存在していたのだ。
だが、今はどうだ。
今の医者や看護師は、電車の中で名乗り出ることを躊躇する。助けた結果、もしもの事態になれば訴訟のリスクを負わねばならないし、何より、その行為には一銭の報酬も発生しない。今の医療システムは、命を救うことすらも「業務」という契約の枠の中に閉じ込めてしまった。だから、誰も動かない。誰も「お医者様」ではないふりをして、スマートフォンを見つめ続けている。
「……誰も来ないからこそ、僕のような『変態』だけが、唯一の救い手になるというのか」
秋生は自嘲した。ホームに崩れ落ちた彼女の身体を支えながら、彼は震えを感じた。今、彼女が吐き出したものが、単なる酔いによるものなのか、それとも死に直結する発作の予兆なのか。今の秋生には判断できない。
もしこれが、救急の処置を必要とする病気だったとしたら。秋生が「愛おしい」などと感傷に浸っている間に、彼女の呼吸は停止するかもしれない。
「これは、道徳以前の問題だ」
秋生は彼女の背中をさすりながら、静かに、しかし激しい怒りを覚えた。
もし僕が彼女に触れ、彼女が最悪の事態になったら、周囲の人間は僕を「変態」として引きずり出すだろう。だが、何もしなかった彼らは「正義の傍観者」として、涼しい顔で目的地へ向かう。
「死」という極限の場面において、今の人間たちは、自らの魂をシステムという防波堤の裏側に隠している。
秋生は、彼女の脈を指先で探った。かろうじて、熱い鼓動が指に伝わってくる。
「いいか、今の医者たちが金にならない命を切り捨て、周りの連中がトラブルを恐れて見て見ぬふりをするなら、僕は何度だって『変態』になってやる」
それは、秋生なりの「医学」だった。システムに救えないのなら、システムが禁じる方法で触れ、その命の温度を確かめること。たとえそれが、社会的な死を招く一歩だとしても。
「もし、この子が今、ここで死にそうになったら……」
秋生は周囲を見回した。誰も目が合わない。皆、画面の中の虚構に必死にしがみついている。
「誰も助けないというのなら、僕がこの子の『医者』になる。ただし、報酬は金じゃない。この子が生き抜いたという、ただそれだけの命の対価だ」
秋生はシャツを脱ぎ、彼女の冷たくなった額を拭った。周囲の軽蔑の視線が、秋生の背中に無数の棘となって突き刺さる。しかし、秋生は構わなかった。システムに負け、約束を破られ、技術さえも奪われた僕たちが、それでも人間であるためには、この「狂気」を抱え続けなければならないのだから。
「さあ、どっちだ。僕が変態として警察に連行されるか、それともこの子が僕の手の中で息を吹き返すか。――どちらがこの国の『道徳』として正しいのか、誰か教えてくれ」
秋生の問いかけに、ホームを吹き抜ける風だけが、冷たく返事をした。今の大人たちは、命の危機にすら「計算」を持ち込む。その絶望的な寒さに震えながら、秋生は彼女の鼓動が強くなることだけを、祈るように信じていた。