暗闇の中で
ホームの隅、誰も立ち入らない冷たいタイル張りの一角で、時間は止まっていた。
「服……弁償します。洗ってきますから」
彼女は震える手で、汚れた秋生のシャツを脱がせようとした。彼女の口から出たのは「睡眠不足」と「ゲームのやりすぎ」という、あまりにもありふれた、日常的な言葉だった。死の淵ではなく、ただの日常の綻び。しかし、秋生にとっては、それが逆にたまらなく愛おしかった。
システムという無機質な理屈ではない、この女の肉体が発する「生」の匂い。
「いい、洗わなくていい」
秋生は彼女の手を制した。汚れたシャツに残る、彼女の胃の記憶。秋生は自分のシャツを、まるで宝物を抱きしめるようにして、汚れた部分を自分の肌へと擦り付けた。
「これは汚物じゃない。君が今日、必死に生きた証だ。オンラインの連中は、約束を破って消えていくけれど、君はここで、こうして僕の目の前で息をして、吐いて……存在している」
秋生は彼女の困惑した視線の中で、子供のように声を上げて泣いた。春香を失った悲しみ、約束を破られた屈辱、そして、システムに人間性を否定され続けてきたこの数年間のすべての憤りが、彼女の吐瀉物の匂いと共に、涙となって溢れ出した。
「汚いことなのに……いいんですか、本当に」
彼女は戸惑いながらも、次第に秋生の肩を抱き寄せた。さっきまで助けを求めていたのは彼女の方だったのに、今は汚れたシャツを抱きしめて泣く秋生を、彼女が懸命に慰めている。
この光景を、周囲のサラリーマンたちは冷ややかな目で見ている。あるいは、スマートフォン越しに覗き見ているかもしれない。しかし、誰も踏み込んでこない。彼らにとって、この光景は「理解不能なエラー」であり、深く関われば自分たちの「清潔な生活」が汚染されると直感しているからだ。
「……変な人ですね」
彼女は、秋生の涙で濡れた頬を拭いながら、小さく笑った。その笑みには、先ほどまでの青ざめた苦痛とは違う、どこか吹っ切れたような柔らかさがあった。
「でも、誰かに『汚くない』って言われたのは、いつぶりだろう」
誰も来ない。救急の放送も、医者の名乗りも、正義の警官も、ここには現れない。ただ、千葉の朝のホームの喧騒だけが、僕たちを無視して流れていく。
だが、秋生には分かっていた。この「誰もいない場所」こそが、今の日本で唯一の真実なのだと。
秋生は彼女の服の袖を掴んだまま、深く息を吸い込んだ。彼女が吐き出した日常の残骸。それは、システムがどんなに強固な防壁を築いても、決して消し去ることのできない、人間という名の「ノイズ」だ。
「明日も、またこの電車に乗る?」
秋生が尋ねると、彼女は少しだけ考えてから、小さく頷いた。
「……ええ。また、会えるかもしれませんね」
二人の間には、何らかの契約も、約束も、団体も存在しない。あるのは、駅のホームの汚れと、互いの震える体温だけ。秋生は汚れたシャツを抱きしめたまま、立ち上がった。この「思い出」は、どんな高価なiPhoneよりも、どんな完璧に設計されたシステムよりも、今の秋生の心臓を強く動かしている。
汚れたまま、僕たちは再び日常という名の軌道へ戻る。だが、もう以前の僕たちではない。たとえ世間が何と言おうと、僕たちは「システムが排除した美しさ」を知ってしまったのだから。
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