暗闇の中で
小泉は教壇に立ち、静寂を待ってからチョークを手に取った。黒板には、さきほどの駅での出来事が、秋生の手によって赤裸々に綴られている。
「結論から言おう。オンライン上のテキストや、綺麗に加工された画像を通じて誰かを『好きになる』という現象。あれは恋愛ではない。あれは、自分が見たいものだけを見せられている、極めて都合の良い『自己投影』に過ぎない」
生徒たちは顔を見合わせた。小泉は厳しい口調で続ける。
「なぜか。恋愛のメカニズムには、必ず『他者というノイズ』の介入が不可欠だからだ。相手の吐息の匂い、胃液の酸っぱさ、肌のベタつき、あるいは予期せぬ場所での嘔吐。自分というシステムを根底から揺さぶり、不快にさせる『物理的な他者』の存在。それを受け入れ、それでもなお『そこにいてほしい』と願う摩擦こそが、人を好きになるということの証明だ」
小泉は窓の外、線路の方角を指差した。
「オンラインで繋がっている相手と、君たちは何をしている? 互いの機嫌を取り合い、都合の悪いことはミュートし、契約という名の『約束』で関係を縛り付けているだけだ。だが、あの駅のホームで秋生が体験したのは、理屈を超えた『汚辱との遭遇』だ。彼女の吐き出したものを受け入れ、自分の服を汚す。そのとき、男は自分の論理が崩壊する音を聞いたはずだ。論理的な自分なら『汚い』と感じるはずのものが、生身の彼女の一部だというだけで『愛おしい』に変換される。これこそが恋愛の正体だ。論理を破壊し、合理性を焼き払う『不都合な他者の受容』だ」
教室の空気が張り詰める。小泉は生徒たちの目を見つめた。
「匂いもせず、体温も感じず、いつでも電源を切れる相手に対して、君たちは『好き』という感情を抱いていると錯覚しているだけだ。それは、カフェでコーヒーを注文するのと変わらない。自分の理想通りのサービスを期待し、それが満たされないと『裏切られた』と騒ぐ。そんなものはただの消費者心理だ」
小泉は、黒板に大きく書いた。
**【恋愛とは、他者の『エラー』を愛することである】**
「誰かとコーヒーを飲みに行く、約束を守る、そんな形式は関係ない。本当に相手を好きになるというのは、その人が吐いた汚物や、隠しておきたい醜い部分を含めた『存在の質量』を、自分の人生の中に引き受ける覚悟があるかどうかだ。その覚悟がない関係を、僕は恋愛とは呼ばない」
彼は静かにチョークを置いた。
「もし君たちがオンラインの向こう側に愛があると思っているなら、今すぐスマホを捨てて、駅のホームへ行け。誰か知らない誰かが倒れ、嘔吐し、震えている場所に飛び込め。そこで、その汚れた手を取り、自分の服でその顔を拭いてやれ。その痛み、その不快感、その絶望感……それらすべてを愛せると確信した時、君たちは初めて、人間として誰かを好きになるという『本当の道徳』に触れることになる」
小泉は秋生の方を向き、小さく頷いた。
「秋生君の体験は、現代の希薄な関係性に対する最高で、かつ最低のカウンターだ。彼はシステムに負けたのではない。むしろ、システムが隠蔽した『人間の本質的な熱量』を、その吐瀉物の海から拾い上げたのだ。……さあ、君たちはどうする? 綺麗な画面の中の偽物の愛を愛し続けるか、それとも、この汚れた現実の中で泥を啜りながら、誰かを愛するという狂気に身を投じるか」
教室には、スマートフォンを操作する音は消えていた。ただ、窓の外から総武線が通り過ぎる轟音だけが、不器用に、しかし力強く響いていた。
「結論から言おう。オンライン上のテキストや、綺麗に加工された画像を通じて誰かを『好きになる』という現象。あれは恋愛ではない。あれは、自分が見たいものだけを見せられている、極めて都合の良い『自己投影』に過ぎない」
生徒たちは顔を見合わせた。小泉は厳しい口調で続ける。
「なぜか。恋愛のメカニズムには、必ず『他者というノイズ』の介入が不可欠だからだ。相手の吐息の匂い、胃液の酸っぱさ、肌のベタつき、あるいは予期せぬ場所での嘔吐。自分というシステムを根底から揺さぶり、不快にさせる『物理的な他者』の存在。それを受け入れ、それでもなお『そこにいてほしい』と願う摩擦こそが、人を好きになるということの証明だ」
小泉は窓の外、線路の方角を指差した。
「オンラインで繋がっている相手と、君たちは何をしている? 互いの機嫌を取り合い、都合の悪いことはミュートし、契約という名の『約束』で関係を縛り付けているだけだ。だが、あの駅のホームで秋生が体験したのは、理屈を超えた『汚辱との遭遇』だ。彼女の吐き出したものを受け入れ、自分の服を汚す。そのとき、男は自分の論理が崩壊する音を聞いたはずだ。論理的な自分なら『汚い』と感じるはずのものが、生身の彼女の一部だというだけで『愛おしい』に変換される。これこそが恋愛の正体だ。論理を破壊し、合理性を焼き払う『不都合な他者の受容』だ」
教室の空気が張り詰める。小泉は生徒たちの目を見つめた。
「匂いもせず、体温も感じず、いつでも電源を切れる相手に対して、君たちは『好き』という感情を抱いていると錯覚しているだけだ。それは、カフェでコーヒーを注文するのと変わらない。自分の理想通りのサービスを期待し、それが満たされないと『裏切られた』と騒ぐ。そんなものはただの消費者心理だ」
小泉は、黒板に大きく書いた。
**【恋愛とは、他者の『エラー』を愛することである】**
「誰かとコーヒーを飲みに行く、約束を守る、そんな形式は関係ない。本当に相手を好きになるというのは、その人が吐いた汚物や、隠しておきたい醜い部分を含めた『存在の質量』を、自分の人生の中に引き受ける覚悟があるかどうかだ。その覚悟がない関係を、僕は恋愛とは呼ばない」
彼は静かにチョークを置いた。
「もし君たちがオンラインの向こう側に愛があると思っているなら、今すぐスマホを捨てて、駅のホームへ行け。誰か知らない誰かが倒れ、嘔吐し、震えている場所に飛び込め。そこで、その汚れた手を取り、自分の服でその顔を拭いてやれ。その痛み、その不快感、その絶望感……それらすべてを愛せると確信した時、君たちは初めて、人間として誰かを好きになるという『本当の道徳』に触れることになる」
小泉は秋生の方を向き、小さく頷いた。
「秋生君の体験は、現代の希薄な関係性に対する最高で、かつ最低のカウンターだ。彼はシステムに負けたのではない。むしろ、システムが隠蔽した『人間の本質的な熱量』を、その吐瀉物の海から拾い上げたのだ。……さあ、君たちはどうする? 綺麗な画面の中の偽物の愛を愛し続けるか、それとも、この汚れた現実の中で泥を啜りながら、誰かを愛するという狂気に身を投じるか」
教室には、スマートフォンを操作する音は消えていた。ただ、窓の外から総武線が通り過ぎる轟音だけが、不器用に、しかし力強く響いていた。