暗闇の中で
春香がいない。だから僕がここにいるのではない。僕がもがいているのは、恋愛の成否や、特定の誰かを失った喪失感という狭い枠組みの話ではないのだ。
問題なのは、恋愛以前の、もっと根源的な「普通の関係性」という回路が、この世の中から抹消されてしまったということだ。スマートフォンの中に閉じこもり、画面越しの記号とだけ繋がることが「普通」となってしまった彼らにとって、生身の人間と対峙することは、もはや不気味なノイズでしかない。
家でネットの海を漂うだけで人生が完結する人たちには、この息苦しさは決して理解できないだろう。壁の向こうにいる人間と、温度を持って触れ合うという当たり前の営みが、今やどれほど過激で、どれほど危険な賭けになってしまったのか。
健常者として、その檻の中で最初から何不自由なく生きてきた者には、失ったことで初めて突きつけられるこの絶望の深さなど、知る由もないのだ。
かつて稲毛駅は、もっと人間臭かった。春香と笑いながら改札を抜けたあの日、そこには互いの呼吸を感じ合える距離があった。それは無駄と言えばそれまでだが、その無駄の中にこそ、人の体温というものが宿っていたはずだ。
今の稲毛駅は、死の匂いが漂う、冷徹な理屈の砦だ。「自殺の名所」という言葉が、この街に住む人々の心を無意識に蝕んでいる。誰もが互いに干渉を避け、視線を合わせず、ただ自分の人生という名の列車に乗って、どこかへ流されていくだけ。僕は、そんな風景の一部となって、この鉄錆の匂いの中でゆっくりと干からびていく。
この合理的な地獄の中で、僕は問う。
繋がりを失い、ただ壊れていくだけのこの世界で、人はいつまで「人形」を演じ続けるつもりなのか。この問いは、画面の中の平穏な幸福に酔いしれる者たちには、永遠に届くことはないだろう。
< 82 / 120 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop