暗闇の中で
国会中継のモニターが、待合室の無機質な壁に掛けられている。議場に響くのは、誰かの正義感と、それに対する空虚な答弁だ。
「……いわゆる『コロナ後遺症』を盾に、社会復帰を拒み続ける者たちへの公的支援について、政府の所見を問う!」
秋生は耳鼻科の硬い椅子に座り、鼻の奥に詰まった異物感と、マスク越しに吸い込む湿った空気に吐き気を覚えていた。かつて感じたはずの、誰かの柔らかな匂い。あの微かな体温の記憶を、この薬の副作用か、あるいはこの街を覆う無菌の空気が消し去ってしまった。
「――現在、休職手当を受給している者のうち、医学的な回復が見込めるにもかかわらず、社会との接点を遮断し続けている層が一定数存在する。これは国民の貴重な財源の浪費であり、労働力不足を加速させる『病の盾』ではないか!」
議場の怒号がスピーカー越しに聞こえる。秋生は手元の錠剤を飲み込む。耳鼻科の医師は「検査結果に異常なし」と繰り返した。マスク越しに言葉を交わすだけで、医師も患者も、互いに何が正しいのかすら分からなくなっている。
「先生、僕はただ、また誰かの匂いを感じたいだけなんです」
そう言っても、彼は電子カルテに視線を向けたまま「アレルギー薬を増やしておきますね」とだけ返す。対話は遮断され、ただ薬という数値だけが処方される。
モニターの中では、議論が核心を突き始めた。
「働かない者に配られる金のために、我々は汗を流しているのか! 孤独を選び、マスクという仮面の下で『後遺症』を呪文のように唱えれば、明日も明後日も家でネットに沈んでいられる。これが、この国が選んだ合理的な福祉の結果なのか!」
秋生はふと、隣に座る男を見た。男もまた、スマートフォンを握りしめ、虚ろな目で画面の先を見つめている。彼もまた、後遺症という免罪符をポケットに隠し持っているのだろうか。それとも、単に人との摩擦を恐れ、この静かな社会の片隅で「何もしないこと」を特権化しているのか。
「……議論すべきは、財源の問題ではない。この社会が、人間関係という面倒な回路を切り捨てたことで、誰もが『一人でいること』に甘え、互いを監視し合うことでしか繋がれなくなったという構造的欠陥だ」
秋生は独りごちた。議場では、大臣が「慎重な検討を要する」と、何一つ決定しない言葉を繰り返している。それは、火葬場を建設して死を収益化しようとした稲毛駅の狂気よりも、さらに深い――底なしの無関心だった。
「いい加減に働け。あるいは、死ぬまでその薄暗い部屋で、液晶の光だけを吸って生きろ」
秋生は呟き、診察室のドアが開くのを待った。国会が議論を重ねようと、この国がどれほど合理的な政策を並べようと、彼が求めている「あの匂い」だけは、もう二度と法案には書き込まれないのだ。人々は後遺症という言い訳を抱えて、今日も静かに、誰とも触れ合うことなく、国の経済という歯車からこぼれ落ちていく。
「……いわゆる『コロナ後遺症』を盾に、社会復帰を拒み続ける者たちへの公的支援について、政府の所見を問う!」
秋生は耳鼻科の硬い椅子に座り、鼻の奥に詰まった異物感と、マスク越しに吸い込む湿った空気に吐き気を覚えていた。かつて感じたはずの、誰かの柔らかな匂い。あの微かな体温の記憶を、この薬の副作用か、あるいはこの街を覆う無菌の空気が消し去ってしまった。
「――現在、休職手当を受給している者のうち、医学的な回復が見込めるにもかかわらず、社会との接点を遮断し続けている層が一定数存在する。これは国民の貴重な財源の浪費であり、労働力不足を加速させる『病の盾』ではないか!」
議場の怒号がスピーカー越しに聞こえる。秋生は手元の錠剤を飲み込む。耳鼻科の医師は「検査結果に異常なし」と繰り返した。マスク越しに言葉を交わすだけで、医師も患者も、互いに何が正しいのかすら分からなくなっている。
「先生、僕はただ、また誰かの匂いを感じたいだけなんです」
そう言っても、彼は電子カルテに視線を向けたまま「アレルギー薬を増やしておきますね」とだけ返す。対話は遮断され、ただ薬という数値だけが処方される。
モニターの中では、議論が核心を突き始めた。
「働かない者に配られる金のために、我々は汗を流しているのか! 孤独を選び、マスクという仮面の下で『後遺症』を呪文のように唱えれば、明日も明後日も家でネットに沈んでいられる。これが、この国が選んだ合理的な福祉の結果なのか!」
秋生はふと、隣に座る男を見た。男もまた、スマートフォンを握りしめ、虚ろな目で画面の先を見つめている。彼もまた、後遺症という免罪符をポケットに隠し持っているのだろうか。それとも、単に人との摩擦を恐れ、この静かな社会の片隅で「何もしないこと」を特権化しているのか。
「……議論すべきは、財源の問題ではない。この社会が、人間関係という面倒な回路を切り捨てたことで、誰もが『一人でいること』に甘え、互いを監視し合うことでしか繋がれなくなったという構造的欠陥だ」
秋生は独りごちた。議場では、大臣が「慎重な検討を要する」と、何一つ決定しない言葉を繰り返している。それは、火葬場を建設して死を収益化しようとした稲毛駅の狂気よりも、さらに深い――底なしの無関心だった。
「いい加減に働け。あるいは、死ぬまでその薄暗い部屋で、液晶の光だけを吸って生きろ」
秋生は呟き、診察室のドアが開くのを待った。国会が議論を重ねようと、この国がどれほど合理的な政策を並べようと、彼が求めている「あの匂い」だけは、もう二度と法案には書き込まれないのだ。人々は後遺症という言い訳を抱えて、今日も静かに、誰とも触れ合うことなく、国の経済という歯車からこぼれ落ちていく。