最後のキスが忘れられなくて
「良菜、今帰りか?」

定時にあがりエレベーターで階下へ降りたら

エントランスホールで声をかけられた。

「周一、お疲れさま。」

「ちょっといいか?」

「何かな?私急ぐんだけど。」

「デート?」

「まさか。」

「じゃ、何?」

「何でもいいから早くして。」

「じゃ、帰りながらしゃべるよ。」

通り沿いを並んで歩いた。

「そっちのセクションのリーダーって何て名前だっけ?」

「アッコ先輩のこと?今日聞かれたのよ、周一のこと。」

「なんだ、もう話題になった?」

「バカ言わないで。良い話題ばかりじゃないでしょ?」

「は~ん、それ、嫉妬?」

「いい加減にして。」

「で?アッコ先輩、俺のこと何て言ってた?」

「別に何も。」

「何もってことないだろ?」

「とにかく、私は周一の飲み仲間についてあれこれ考えたくないの。」

「あっそ。」

メトロの改札口を通った。

ホームはアナウンスや地下鉄の騒音でまともに話せない。

電車に乗り込んだ。

周一に連結部の方へ引っ張られた。

「なんで?」

「はあ?」

「なんでだよ?」

「何のこと言ってるの?」

「どうして正社員でなく契約社員なんだ?」

「今更、それを聞く?」

「ずっと疑問に思ってたから。」

「どうでもいいでしょ、そんなこと。」

「あのな。」

「しつこい。」

私はそう言って周一を無視してスマホの画面を見た。

「良菜。」

「とにかく、周一に話すことでもないんだから。」

「聞きたい。知りたい。」

「はあ?なに駄々っ子ぶってるのよ。」

「これから家に寄っていい?」

「今日はダメ。」

「なんでだよ?」

「とにかく、今日はこれから用事があるの。」

「俺の話はすぐ済むし。」

「わかったわよ。母さんのケーキが食べたいだけでしょ。」

「んまあ、それもあるし。」

「とにかく、さっさと食べて帰ってね。」

今日のケーキはパンプキンのミルフィーユ風パイだ。

毎回写真付きで母さんからメールが来る。

「ほら、今日のケーキはこれですって。」

周一にスマホの画面を見せた。

「やり。」

「ったく。」

ケーキ作りが趣味の母は

子供の頃に将来の夢としてケーキ屋さんになることがすべてだったらしい。

そう聞いたことがあった。

新聞の折り込みチラシやDMや

デパートの地下街にあるケーキショップを眺めては

自前でケーキをアレンジしていた。

かなり凝ったケーキが自慢である。

ミルフィーユのように3段に積み重なったパイの上には

ほんのり黄緑色をしたクリームがソフトクリームのように絞られていて

かぼちゃの種がトッピングされていた。

さらに食用の金箔がパラパラと飾ってある。

パイ生地からはみ出た栗かぼちゃのクリームが

何とも言えない可愛らしいとろり感をかもし出していた。

母でなくてもこの写真を見ただけで

作り手の本気が伝わってくる。

母の夢が100%以上詰まったこの一切れに

私はうらやましい気持ちでいた。

ケーキ屋さんになれなかったとしても

これだけのものが作れる母には

私にはない充実感を持っていると思うからだ。

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