君のキスが狂わせるから
 深瀬くんの行きつけだというお店は、ヨガのスタジオから歩いて15分くらいの場所だった。
 どんなところかドキドキして重々しいドアを開くと、店内は薄暗く、静かなジャズが流れていた。
 居酒屋というよりは、バートいうようなムードだ。

(深瀬くん…来てるのかな?)

 店の奥へ進もうとした時、すぐ後ろでドアの開く音と共に深瀬くんの声がした。

「すみません、待ちました?」

 振り替えると、深瀬くんがコートを手にした状態で息を切らしている。
 私とほぼ同時にお店に着いたようだ。

「大丈夫だよ。私も今来たところ」
「そうですか。よかった…」
「深瀬くん…その様子だと、今日って外回りだったの?」
「はい。ちょっと、引き留めにあってしまって」

(さすが、どこでも引っ張りだこだ)

 とは思ったけれど、約束を守ろうと急いでくれた様子を見るのは素直に嬉しい。

「お疲れ様だったね」
「仕事ですから」

 ふうとため息をついた彼の額には僅かに汗が滲んでいた。

「カウンターでもいいですか?」
「うん、もちろん」

 深瀬くんは自分の着ていたコートを脱ぎ、それをさっと壁にかかっていたハンガーにかけた。そして、すっと私の方を見ると腕を差し出す。

「愛原さんのも、かけますよ」
「あ…ありがとう」

(行きつけっていうだけあって、慣れてるんだな)

 急いでコートを脱ぐと、差し出された彼の手にそれを渡した。
 彼は私を先に席に座らせると、隣に腰掛けてマスターからメニューをもらって私に見せた。

「お腹すいてます?」
「ん…少しね」
「じゃあ、パスタとかどうです。ここ、美味しいですよ」
「深瀬くんこのお店詳しそうだし、お任せするよ」
「いいですよ。じゃあ、食べ物は適当に頼むので、飲み物だけ選んでください」
「ん、わかった」

 ここまでの流れがあまりに自然で、自分でもちょっと驚いていた。

(会社で会ってるより、ずっと気持ちが楽だ。深瀬くんも余計な緊張感を持ってないせいかな)

 いきなり酔いすぎてもまずいと思い、私は軽めのカクテルを頼んだ。
 深瀬くんはジントニックを選び、手にしていたハンカチをポケットにしまいながら私を見る。

「愛原さん来てくれないかも…って思ってたんで、安心しました」

(もう…また、そうやって不意打ちしてくる)

「約束したんだから、来るよ」
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