君のキスが狂わせるから
5.アプローチ
 あれから一週間が経過した。
 カレンダーはすでに3月に入っていて、社内では気が速い人がお花見の話題を始めている。

(あれは……本当に夢だったんじゃない?)

 そう思いたくなるほどに、私の中ではあの日の記憶が淡くなりつつあった。
 深瀬くんとはその後、特に何もない。
 彼の仕事が忙しいせいもあって、会社で顔を見ることもあまりないのだ。

 私自身、毎日ヨガでリセットしているせいもあり、何かに囚われて自分を見失わない努力をしていたせいもある。

 深瀬くんは私こそ年齢で差別していると言ったけれど、やはり失恋したら二度と立ち直れないのが分かるから、簡単に踏み出す勇気など出ない。

(これっきり何もない方が、お互いいいのかも)

 そう思っていた日の午後、廊下の向こうから深瀬くんが広報の野島さんと話しながら歩いてくるのが見えた。
 どういう顔をしていいのか分からず、軽く俯きながらすれ違おうとした。
 すると、急に深瀬くんが急に歩くスピードを落とす。

「すみません野島さん、忘れ物をしたみたいなんで。先に行っててください」
「ああ、わかった」

 野島さんは特に不自然なく頷くと、私に軽く会釈して通り過ぎた。
 深瀬くんはそのまま引き返すのかと思いきや、私の手を握って近くの給湯室に入った。

「ちょ…っと」

 電気のついていない給湯室は薄暗く、私は弄りながらシンクに手をつく。
 深瀬くんはつけていたマスクを外し、じりじりと近づいてくる。

「急に…何?」
「愛原さんがスルーしようとするからですよ」

 近づいた顔は暗がりでも美しく整っているのが分かる。
 瞳はいつもより冷たく光っていて、またあの独特のぞくりとするような感覚が背に走った。

「あれからずっと無言じゃないですか。俺、連絡待ってるんですけど?」
「深瀬くんだって連絡くれないじゃない」

(っ、しまった)

 今の答えで、私が彼からの連絡を待っているのを証明してしまったようなものだ。
 深瀬くんは満足げに口元を緩めると、私の頰にそっと唇を寄せた。
 ふわりとした温もりに、久しくなかった粟立つような感覚が呼び覚まされる。

「今日はこれで我慢しときます」
「……っ」
「あなたの答えが出るまでアプローチはするって、言ったでしょう?」

 そう言って小さく笑うと、彼はキスした場所を軽く撫でて給湯室を出て行った。
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