君のキスが狂わせるから
(何……今の)

 自らも頰に触れ、キスの感触を思い出す。
 軽くかかった彼の息の熱も覚えている。
 あんな僅かなアクションで、こんなにも乱されるなんて自分でも想像していなかった。

 全身が鼓動に合わせて、強く脈打っている。
 深瀬くんが他愛なく頰にキスしただけで、何年もかけて積んだ呼吸の安定が崩れた。
 でも、その不安定さはどこか甘い予感も混じっていて、私の心を強く引き込んでいく。

「どうしよう……」

 給湯室を出たものの、私はどこへ向かっていたのかも忘れて経理室へ戻った。
 自分の席についても、ふわふわした感覚が消えてくれない。

(仕事にならない…っ)

「愛原さん、何かあったんですか?」
「え?」

 三上さんが怪訝な顔で私を見ている。

「ううん。なんでもないよ」
「……でも、提出書類、どうして持って帰ってきたんですか」
「あっ、そうだ! ごめん、もう一回行ってくるね」

 私は総務課に書類を提出しに、部屋を出たのを思い出した。
 慌てて立ち上がると、改めて総務課に向かう。

(いけない、いけない。今は仕事に集中しないと)

 自分の頰をぴしゃぴしゃと叩き、無理やりに意識を仕事モードへと切り替えた。


 その日の夜、私は浮ついた気持ちを封印して深瀬くんにラインを送った。

『今日は驚きすぎて、仕事がおざなりになるところだったよ。会社では、ああいうのやめて』

 すると、すぐにそのメッセージは既読になった。
 でも、思ったほど早く返信はない。

(忙しいのかな)

 立て続けにメッセージするのも引けて、とりあえずスマホをテーブルに置いて先にシャワーを浴びた。
 身体も気持ちもさっぱりの状態で戻って、スマホを見直すがやはり返事はない。

「……駆け引きしてる?」

『こういう心を探り合うようなの好きじゃない』

 思わず感情的なメッセージをすると、ぽこんと短いメッセージが入る。

『すみません ちょっと体調悪くて』

「え…、そうなの?」

『大丈夫?』

 それに対してもすぐには返事がこない。
 どうにも心配で電話すると、3コールくらいで掠れた声で深瀬くんが出た。

『もしもし……』
「ごめん、急に電話して」
『あは…また謝ってる』
「っ、からかってるの? 本当に体調が悪いの?」

 少し沈黙してから、深瀬くんはゴホゴホと咳をした。
 どうやら体調が悪いのは本当のようだ。

「昼は元気そうだったのに」
『マスクしてたでしょ。だからあなたの唇にもキスできなかった』
「……っ」

(そうだったの?)

 マスクは最近予防のためにつけている人もいるから、分からなかった。

(何も知らないで、きついメッセージしちゃったな)

 相手が体調が悪いのが分かり、私は急激に申し訳ない気持ちになっていた。
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