赤い傘
 続く関係じゃない。
 この人は、きっと刹那に現れた幻だ。
 明らかに自分の人生の何年も先に一緒に笑っている人じゃない。

 それはわかっていたけれど、私はすがるような気持ちでその人の手を取った。

 希望通り、近くの喫茶店でコーヒーを飲んで他愛のない話をした。
 会社には病欠の連絡を短く伝える。
 悪いことをしている自覚はあったけれど、それすらどこか快感だ。

(正しさって何だろう……私は汚れたがっていたんだろうか)

 無遅刻無欠席を誇っていた私が、男性と過ごしたいという理由で会社を休む。
 それは明らかに自分の残してきた白い歴史を黒くするエピソードだった。

「名前くらいは教えてもらえるんでしょうか」

 恐る恐る聞くと、彼はくすくすと笑って名刺を出した。そこには会社名とその人の名前が書いてあった。

「ミハエル……海外の方なんですか?」
「ドイツと日本のハーフですよ。一応個人で輸入雑貨を売買してるんです」
「そうなんですか」

 名前があること、仕事があること。どこか幻想めいていた彼の存在が急に地に足のついたものに感じられた。

「あなたは?」
「あ……私は菊本明日香って言います。ごく普通のOLです」
「アスカさんね」

 コーヒーカップを置くと、ミハエルは自分の美しい手を私の手の上に重ねた。
 少し冷たいその指に軽く体がびくりとなる。

「先に言っておくと、僕はあまり道徳的に正しい生き方をしていない」

 この状況まで持ってきて、覚悟していたとはいえ衝撃的な事実を伝えられる。
 でもそれは私が予想していたものとは違った。

「恋人は男性が一人、女性が二人いる。それぞれの予定が合う時に、自由に会って語ったり体を重ねたりしてるんだけど……そういう人間を軽蔑するなら今のうちに僕のことは忘れたほうがいいと思う」
「……」

 既婚者ではなかったけれど、想像以上に飛んだ人だった。
 紳士的だし恐らく教養も相当高い。
 目を引く美しさも兼ね備えていることからも、そういう選択肢ができてしまうのも理解できなくもない。

(でも、恋人が男女入り混じって3人……)

「受け入れてくれるなら、アスカを4人目の恋人にしたいと考えてるんだけど」
「ちょ、ちょっと待ってください」

 答えを急ぐミハエルに、私はストップをかける。

(魅力的な人だとは思うけど、他に恋人がいる人を受け入れる自信ないよ)

 でも、この場ですぐに去る勇気もない。
 混乱する頭で何とか決断できたのは、せめて今日1日だけでも恋人らしく過ごしてもらえないだろうかということだった。

「僕に抱かれたい?」

 ダイレクトな質問に、一瞬答えを返せない。
 この人に誤魔化しは効かない。その鋭い洞察眼で私の奥底の渇きを見抜いてくる。そしてその視線から私は逃れられない。

「……ミハエルさんが嫌じゃなければ」
「嫌なら最初から声はかけないよ」
「そうですか」

 美しい毒蜘蛛にでも捉えられたような気分だ。
 明らかに猛毒なのに、その美しさのあまり見とれている間に糸で絡め取られてしまったような。

 ミハエルは私の手をぎゅっと握ると、この上ない美しい顔で微笑んだ。

「心の底から満足するまで抱きしめてあげるよ」

 ぞくりとするほどの妖艶な笑みに、私の体はもう熱くなっていた。
 まだ昼にもならない朝の喫茶店で欲情しているなど、自分の中の背徳感がざわざわする。

(私はどうしちゃったんだろう……数年前にいた恋人にすら自分の欲をさらけ出したことはないのに)

 30歳の誕生日を迎えた時、私はもう異性を好きになる気力は残ってなかった。
 何年も付き合って、結局別の女性に去っていく人を見てから……全てが信じられなくなったのだ。

 恋なんてもう要らないと思ってここ数年を生きてきた。

 でも生きているっていうのは不思議で、ホルモンの周期で無性に体が熱くなる日がある。
 とにかく肌が恋しい。
 誰でもいいから抱きしめて欲しいと、悲しいくらい望む日がある。

 多分今日がその日だったのかもしれない。
 
「行きましょう。僕の部屋なら誰にも邪魔されないでしょう」
「はい」

 まるで魔法でもかけられてしまったかのように、私はミハエルの誘導のままに動いた。
 理性的な時はこんなシチュエーション、犯罪に巻き込まれる予感しかしないのに。今はミハエルが自分を満たしてくれる、その一点しか見えていない。

(私にもこんな部分あったんだ。欲望のままに動く自分って初めてだ)

 そんな感慨すら感じている。
 それもこれも、やはり私がミハエルに一目惚れしてしまった時から動いていた歯車だったのかもしれない。

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