赤い傘
 雨は止む気配もなく、私はどこをどう歩いたか分からなほど歩き、ようやくミハエルの住むマンションに辿り着いた。

 濡れた体を気にしていると、玄関先でミハエルはすぐに私を抱きしめた。

「あ……雨に濡れて」
「ブラウスが体にフィットして、とてもセクシーだよ」
「ん……っ」

 抵抗できないままに深いキスを受け、そのまま器用にボタンが外されていく。
 整った唇に優しく何度もついばまれるうち、私の思考はただミハエルを求めるだけに集中していった。
 すっかりキスにとろけてしまった頃、ミハエルが静かな声で私に囁く。

「ここじゃ体が痛いだろうから、移動するよ」
「あっ」

 静かで整ったリビングまで抱きかかえられ、私の体は大きめのソファに沈められた。

「怖い?」
「いえ……でも少し緊張してるかも」
「安心して。僕はアスカが明日から深く呼吸して生きていけるようにしてあげるだけだから」

 髪を撫でられながら優しく説かれると、わずかな緊張も全て消えていく。

「……信じてる」
「うん」

 恋人というのは、一生を一対一で添い遂げるものだろうと思っていた。
 だからミハエルが幸せな恋愛をしているとは正直思えなかった。
 何人もの恋人を同時に愛するなんて、都合のいい言い訳だと。

 でも、実際彼に触れてみて、ミハエルを愛する3人の男女はきっと自分だけのものにならなくても彼を失いたくないと心から思っているんだろうと思えた。

(だって、こんなに優しく抱いてくれる人……他にいないでしょ)

 失ったピースが心に戻ってくるのを感じる。
 少しずつ乾いていた心に潤いが蘇る。

 この人とずっと一緒にいられたら、どんなに幸せだろう。
 でも今送られてくる涙が出るほど暖かい感触を、他の人にも与えているのを耐えなければならないと思うと……やはり自分では駄目だろうとも思う。

 それでも彼に出会って実感したのは、自分が呼吸もできないほど苦しく寂しいと思っていた……ということだ。

 どんな人にも、生きる中で生まれる暗くて寒い穴を埋め合う人は必要なんだろう。
 求め、求められ。そして温まった心で他の人に幸せを分ける。

 私が失っていたのは、つまり……心の余裕というものだったのかもしれない。

「ミハエル……とても嬉しい。こんなに幸せな瞬間感じたことない」
「そう。よかった」

 腕の中で泣く私を、ミハエルはずっと抱きしめてくれた。


 この日、ずっと夜になるまで私を満たしてくれたミハエルは、次の日から二度と会うことはなかった。

 雨の日にあの赤い傘を探しても見つけることもできない。
 もらったはずの名刺も消えていた。
 
(幻だったのかな)

 もう咲き終わった薔薇の枝には花はなく、次の咲く時を待っている。

 寂しいとは思うけれど、これで良かったのだとも思う。

 不思議とあの日から、私の心には温かい何かが宿り、会社でコーヒーを飲みに行く男友達ができた。
 まだ交際するかどうかはわからないけれど、気が合うからそうなってもいいなと思っている。

 ミハエルというのは大天使ミカエルのドイツ語名らしい。
 そう考えると、彼は天使の申し子だったのだろうか。それにしては艶かしい男性だったし、悪魔的な香りがしたのも事実。

 今も考えるのは、あの時、私が彼の4番目の恋人になる選択をしていたらどうなっていたんだろうということだ。

 その答えは一生わかることはないのだけれど……。

終わり

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