お見合い夫婦の結婚事情~カタブツ副社長に独占欲全開で所望されています~
 だとすれば。
 真帆もなかったことにしなくてはいけないのだと思う。愛しい人に一度だけでも触れられたという喜びは胸に閉じ込めて蓋をする。
 そして何事もなかったように会社のために、ひいては彼のために、しっかりと業務をこなさなければ。
 そうでなければ、自分は彼にとって一社員としての存在意義も失ってしまう。
 けれどそれは今の真帆にできそうななかった。
 あのとき、真帆を包むように触れた彼の腕の強さ、ふわりと感じた少し野性的な甘い香り、そして唇の熱と柔らかさ。
 それら全てが真帆の心を捕らえて離さなかった。
 彼に恋をしてしまったと言って秘書室を去ったかつての女性たちは、皆このように苦しんだのだろうか。すぐ側にいるのに、けして手が届かない存在である彼が近い将来彼だけの大切な人と添うのだと思うと、真帆の心は引き裂かれるように痛んだ。
 それを近くで見なくてはならない未来に自分は耐えられるだろうか。
 それならいっそここを去る方が良いと頭ではわかっているのに、それもできそうにない。なぜならそうしてしまえば、真帆はもう彼に会えなくなるからだ。生まれたばかりで散った儚い夢のような恋だったけれど、それを自分から永遠に手放す勇気はまだ持てなかった。
 男性を愛おしく思う気持ちがこんなに苦しく辛いものだということを真帆は生まれて初めて知った。

"なぜあのとき、あなたは私にくちづけたの"

 いつもの真帆だったら、言えるはずの言葉がどうしても言えない。あのキスの意味を尋ねて、気の迷いだったすまないなどと謝られてしまったら、どうにかなってしまいそうだった。
 真帆は、蓮から受け取った資料をじっと見つめてそんな自分の気持ちを反芻する。
 けれど考えても考えても何もわからないままに、彼への想いだけが季節外れの雪のように真帆の心に積もっていった。
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