クールな社長は懐妊妻への過保護な愛を貫きたい
「楽しい時間をありがとう。会計は済ませておくから」
「あ……」

 席を立った夏久さんがバーテンダーのもとへ向かおうとする。
 振り向いてくれないその背中に、痛いくらい寂しさを感じた。

(――待って)

 自分でもわからない衝動のまま手を伸ばし、ジャケットの裾を掴む。
 夏久さんが立ち止まって振り返ると同時に、店内のBGMが消えたような感覚に陥った。

「ん?」

 どうした、と穏やかな眼差しが尋ねてくる。
 私が見つめていたはずなのに、逆にその目に囚われた。

「ご――めんなさい」

 引き留めるほど、親しくはなっていない。
 これは“夜遊び”で、ほんの短い間だけのただの話し相手。
 また縁があったらどこかで会おうと言って別れるのが正しい。
 瞬時に頭が冷えて、咄嗟に握ってしまった裾から手を放そうとした。
 それなのに――離れる寸前、大きな手が私の手を包み込む。

「君もまだ一緒にいたいと思ってくれているのか?」

 線を引かれているのだと思ったけれど、今、この瞬間だけはたしかに踏み込まれたのがわかる。
 だから、父の教えに背くだろうとわかっていながら頷いてしまった。
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