ノクターン

「せっかくだから、上まで昇りましょう。」

と智くんは言って みんなで都庁のエレベーターに乗った。
 

展望室は エレベーターを出ると 視界が開けて みんなで窓に駆け寄ってしまう。


夕焼けには早かったけれど 快晴の空は 遠くまで綺麗に眺められた。
 


「すごいわ。東京って。この家の数。軽井沢では考えられないわね。」

父も母も ずっと軽井沢で暮らしている。

大都会での生活は 想像できないだろう。
 

「僕たちのマンションは あの辺です。」

西の方角を見ながら 智くんが指差す。
 

「これだけの家で 相当の人の中で生活するって。大変だね。」

父も感慨深げに言う。
 

「お姉ちゃん、19才からこんな所で暮らしていたんだよね。しかも一人で。怖くなかったの?」妹に聞かれ、
 

「今考えると 怖いよね。本当に。ただの怖いもの知らずだったね。」



あの頃の私は なぜ怖くなかったのだろう。

何も持っていなかったから。失う物を。

それに 自分を透明な殻に入れて それを破らなかったから。

誰にも 私に直接触れることは 許さなかったから。


私の心に。
 


「でも、もう大丈夫です。僕が麻有ちゃんを守るから。」

智くんが にっこり笑って言ってくれる。


殻を破ってしまった私は 怖いと感じる。

智くんが 盾のように 私を守ってくれなかったら。


生まれたての雛のように 産毛も揃っていない私なのに 智くんに守られて 笑顔でいられる。

みんなが 私の心に直接触れても。
 


外を見ている家族から少し離れて 私はそっと智くんの背中に隠れた。
 


『どうしたの?』と言うように 優しい目で私を見た智くんは 多分 私の不安に気付いてくれていた。

『大丈夫だよ。』という瞳で私を見ると そっと髪に触れてくれた。

 
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