授かったら、エリート弁護士の愛が深まりました
「お父さん、私、やっぱり婚約なんか――」

「菜穂、もう決まったことだ。私に恥をかかせないように」

後に続くであろう私の躊躇いの言葉を察し、父がピシャリと容赦なく遮った。

開始時間が迫ってくると招待客の談笑が目立ち始め、それと同時にどうすることもできない焦燥感が湧いてきて、ソワソワと居ても経ってもいられなくなる。

「ちょっとお手洗いに行ってくる」

「ああ、すぐに戻って来るんだぞ。迷子にならないようにね」

この船の中でどうやったら迷子になるっていうのよ……。

室内が息苦しくてお手洗いという口実を使い、廊下を歩いていると。

「きゃ! す、すみません」

前を向いていなかったせいで正面から歩いてきた背の高い男性と軽くぶつかる。

「いえ」

スーツに合う中折れハットを目深に被り、ツバをつまんで下げるとその男性は私の顏を見ることもなく足早に立ち去ってしまった。

今の人……。

その男性がたったひとこと発した「いえ」という声が不思議と耳に残る。

ここには父の友人か警察関係者しかいないんだよね? でもどこかで聞いたことのあるような……。

と一瞬思ったけれど、ただでさえ落ちかない今の状況であれこれ考えるのもなんだか疲れてしまった。
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