熱海温泉 つくも神様のお宿で花嫁修業いたします
 

「あの……」


 花が声をかけると、八雲が徐に振り返った。

 八雲は昼間見たときと同じ、紺色の着流しをまとっているが、夜のせいで碧が更に深く色付いているように見える。

 月明かりを浴びた横顔と、黒曜石のような瞳に射抜かれた花の心臓は大袈裟な音を立て、花はまるで凍りついたようにその場に足の根を張った。


「何をしている、相談があるのだろう。こちらに来て座れ」

「……っ」


 八雲の言葉に、花は思わず息を呑んだ。

 胸の鼓動は早鐘を打つように高鳴っていて、相変わらず足は自分のものではなくなったように動かない。


(お、落ち着け、私の心臓──)


 それでも花は、なんとか自分の心を奮い立たせた。

 そもそもここには、仕事の話をしに来たのだ。

 加えて、今朝、考えなしに八雲の父の話を尋ねてしまったことを謝ろうと思って来た。

 だから別に、八雲を変に意識する必要など皆無なのだ。

 
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