俺と、甘いキスを。
木曜日。
朝早くからスマホのバイブが震えっぱなしだ。
相手は椿マリエ、俺の妻だ。
ミラノは夜中、日が変わる頃だろうか。彼女は思い立つと日本が真夜中でも夜明けでも構わず電話をする。以前「常識を持て」と注意したことがあったが、
『やらなきゃ、と思った時にやっておかないと気になって進まないのよ』
と、ワガママなお姫様に言い返されたことがあった。
「我が道を行く」精神はデザイナーとして必要なことだろうが、主婦には向かない性分なのかもしれない。
そんな彼女に最初の電話で起こされてから、かれこれ十回目の呼び出しである。さすがに無視できなくなり、スマホの通話をタップする。
「朝早くからの電話とは、珍しいね」
と、少し嫌味を含んだ言い方をしてみた。
『あら、ごめんなさい。こっちは夜なの。例の件、どうするのか聞いておこうと思って』
その為に何回も電話をしてきたのか。
「それはお前が日本に帰ってきたら話すことになっているだろう。それとも、何か急ぐ理由でもあるのか」
マリエは「そんなことないけど」と、歯切れの悪そうに言う。
『うちの経理担当が「スポンサーはまだ決まらないのか」と言ってるのよ。そろそろ準備の予定を決めなきゃいけないし、会場を押さえるのにお金がいるのよ。いいじゃない、離婚の慰謝料は要らない代わりに次回のイベントのスポンサー費用を負担するだけなんだから』
そう。
一ヶ月前から話し始めた「離婚」。
マリエひ離婚の条件として慰謝料ではなく、半年後に行われるファッションイベントのスポンサーになれと言ってきた。
その費用、五千万。
ただの研究員の俺に、そんな金額が払えるわけがない。
マリエが先日、怪しげな帰国をした時に一度断った条件だ。彼女は「五千万くらい、簡単に集められるでしょ」と笑って言った。