幸せにしたいのは君だけ
それでも。

佐久間さんの声は聞こえなかった。

私たちは早い時間から来店していたので、彼らが来たのはきっと私よりずっと後なのだろう。

数人の男性がやってきた気配は薄っすら感じていたけれど、まさか佐久間さんだったなんて思いもしなかった。


圭太(けいた)のお気に入りの焼き鳥屋さんでね、すごく美味しいの』


脳裏に大好きな先輩の声が響く。

どうして忘れていたのだろう。

澪さんが勧めてくれる店のほとんどは、佐久間さんがよく利用している場所だと。


「最悪……」


化粧室でひとり小さく呟く。


いや、でも私はただ“澪さんの後輩”というくらいしか彼には認識されていないはず。

紹介してもらった記憶はあるが、それはずいぶん前の話だ。

それ以来、それほど顔を合わせる機会はなかったし、受付で時折言葉を交わすくらいだった。

まさか幼馴染みの後輩なんて、いちいち覚えてもいないだろう。


うん、きっと大丈夫。

とりあえず素知らぬフリをして、早く店から出ていこう。


そう決めて、再びうつむきながら席に戻ると、千埜はすっかり身支度を整えていた。


「どうしたの? 気分でも悪い?」

「う、ううん。ちょっと、考え事」

「大丈夫? もしかして私のお酒を間違えて飲んじゃったのかと思った」


私がお酒を一滴も飲めないと知っている親友が、気遣わし気な表情を見せる。


「違う違う、ほら行こう」
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