その上司、俺様につき!
「も、申し訳ありません……」
他にエレベーターに乗っている人がいなくてよかった。
もしこの場に他の誰かがいたら、しばらく社内は私の噂で持ちきりだっただろう。
情けなさと痛みのダブルパンチでじわじわ涙目になる。
「いやいや、泣かんでもいい。そうだな……」
社長は白髪まじりのあご髭を撫でながら、ふむ……と考え込んだ。
一体何を言われるのかと、ヒヤヒヤした気持ちで見守る。
(自宅に強制送還させられて、始末書ってこともありうる……!?)
しかし、社長の口から飛び出した言葉は予想をはるかに超えるものだった。
「良かったら、これからコーヒーでも飲まんかね」
「……は? コーヒー、ですか?」
この状況が上手く飲み込めない。
「あ、いえ、お誘いは大変光栄なのですが、始業時間が迫っていまして……」
返事をしている間に、エレベーターが私の目的の階に到着する。
ここで降りなければいけませんので……と控えめに主張したものの、社長は思わぬ強硬手段に出た。
「いやいやいや、久喜君には私から言っておくから」
こちらの命令通り静かに開いた扉を、「閉」ボタン連打でなかったことにしてしまったのだ。
「な?」
駄目押しと言わんばかりに微笑みかけられると、頷く以外選択肢は残されていない。
「は、はい。喜んで……」
そうして私は入社以来、二度目となる社長室滞在を経験することになったのだった。
「ブラックは平気かね?」
私が「はい」と返事をすると、社長は手際よく古めかしいコーヒーサイフォンに、ミネラルウォーターをセットした。
社長室の片隅にこんなに本格的なコーヒーサイフォンが一式揃っているなんて、前回訪れた時は気がつかなかった。
私は勧められるまま黒い革張りのソファに座り、先ほどから社長が滑らかな動作で作業を進めていくところを、ただただぼうっと眺めている。
「眉唾かもしらんが、二日酔いにはカフェインが効くと言うしな。きっと、気休めくらいにはなるだろう」
そう言いながら、フィルターを準備したりコーヒー豆の袋を用意したり、終始ウキウキした様子でコーヒーを淹れてくれた。
(……ここにたどり着くまで、内心では修羅場を迎えちゃったわけだけど)
私は上機嫌の社長に気づかれないように、ホッと小さなため息を吐く。
社長室には、隣接している秘書室を通らなければ入室することができない。
今日ほど桜井さんに見つかりたくなかった日はないというのに、私の願いもむなしくあっさり出会ってしまったのだった。
「おはようございます!」
いつもと変わらない華やかな笑みを向けられてしまっては、挨拶をせざるを得なかったけれど……。
何が悲しくて、恋敵にすっぴんを晒さなければならないのか。
桜井さんが今何を考えているのか、想像するだけで胃が痛くなってしまった。
(……でも、久喜さんに会う前に冷静になる時間ができてよかったのかも)
< 77 / 98 >

この作品をシェア

pagetop