パンデミック.新形コロナウイルス
東京の喧騒のすぐ下、地面の奥深くにその場所はあった。
パンデミックの混乱が頂点に達し、医療システムが飽和する中で、都心のこの病院は異様な「効率」を選択した。地上階には、希望の光が溢れている。小児科病棟には院内学級の笑い声が響き、子供たちは「いつかここを出られる日」を信じて教科書を開いている。だが、そのさらに下の、地図にも載っていない「地下病棟」には、全く別の時間が流れていた。
そこへ送られるのは、手術を待つ患者や、もう回復が見込めない子供たちだ。
「地下へ行けば、もっといい治療が受けられるんだよ。特別な薬もあるし、魔法のような機械だってあるから」
看護師たちは、上の階の子供たちが泣き出さないよう、完璧な笑顔でそう嘘をつく。彼らはエレベーターの扉が閉まると、慣れた手つきでスタッフ専用のカードキーをかざす。すると、操作盤には表示されない「地下」のボタンが反応する。客用のエレベーターは絶対に地下へは行かない。階段にも厳重な施錠がなされ、物理的に降りることは不可能だ。
地下への唯一のルートは、古い食品用エレベーターだった。かつて給食を運んでいた狭くて暗い金属の箱が、今は「死の淵」へと続く唯一の乗り物になっている。
僕は、その地下病棟に長くいる看護師の一人として、ある少女――明かり――を受け持っていた。
彼女は、上の階の子供たちが憧れる「未来」から遠ざけられた存在だった。地下の空気は澱み、湿っている。でも、ここには嘘がない。地上の子供たちが信じさせられている「希望という名の残酷な期待」に、彼女はもう振り回されなくて済んだのだ。
「また、ここに来たね」
明かりは、金属製のベッドの上で僕の手を握る。この地下には、東京の喧騒も、パンデミックのニュースも届かない。ただ、僕と彼女の呼吸音と、食品用エレベーターが運んでくるかすかな機械の唸りだけがある。
「ねえ、秋生。上のみんなは、私たちがどこに行ったと思ってるのかな」
「地下の魔法の病棟で、お姫様みたいに過ごしてると思ってるよ」
僕は嘘を吐きながら、彼女の痩せた指先に触れる。地上の子供たちは、地下に行けば助かると信じている。僕たちはその嘘を守るために、彼女たちを社会から抹消する。それがこの病院の、そしてこの狂った時代の「優しさ」の形だった。
明かりが眠りに落ちると、僕は静かに彼女の手当てをする。彼女の皮膚は冷たいが、僕が触れている間だけ、この地下病棟は宇宙で一番温かい場所になる。
時折、上の階から運ばれてくる新しい子供たちの気配が、食品用エレベーターの扉越しに伝わってくる。彼らは、希望を抱いてその箱に乗り込み、扉が開いた瞬間に「ここが終わりだ」という現実を突きつけられる。
でも、僕は思う。
地上の無菌室のような、嘘に塗り固められた世界で、誰からも見られず、希望を消費されながら生きるよりも、ここで死を予感しながら互いの体温だけを信じて握り合う方が、よほど人間らしいのではないか。
明かりが目覚めて、不機嫌そうに僕の手を振り払う。その剥き出しの苛立ちすら、地上の「いい子」を演じさせられる日常より、ずっと純粋だ。僕は彼女の小さな拳を握りしめ、傷ついた指先をそっと撫でる。
この東京の地下深くに沈んだ僕たちの聖域。
ここには、誰も迎えには来ない。けれど、何者にも邪魔されない二人の時間が、確かに脈動している。
「明日は、何をしようか」
僕の問いかけに、彼女は少しだけ微笑んだ。地上の子供たちが夢見る未来よりも、僕たちのこの閉ざされた「今日」の方が、ずっと残酷で、そして何よりも愛おしかった。
パンデミックの混乱が頂点に達し、医療システムが飽和する中で、都心のこの病院は異様な「効率」を選択した。地上階には、希望の光が溢れている。小児科病棟には院内学級の笑い声が響き、子供たちは「いつかここを出られる日」を信じて教科書を開いている。だが、そのさらに下の、地図にも載っていない「地下病棟」には、全く別の時間が流れていた。
そこへ送られるのは、手術を待つ患者や、もう回復が見込めない子供たちだ。
「地下へ行けば、もっといい治療が受けられるんだよ。特別な薬もあるし、魔法のような機械だってあるから」
看護師たちは、上の階の子供たちが泣き出さないよう、完璧な笑顔でそう嘘をつく。彼らはエレベーターの扉が閉まると、慣れた手つきでスタッフ専用のカードキーをかざす。すると、操作盤には表示されない「地下」のボタンが反応する。客用のエレベーターは絶対に地下へは行かない。階段にも厳重な施錠がなされ、物理的に降りることは不可能だ。
地下への唯一のルートは、古い食品用エレベーターだった。かつて給食を運んでいた狭くて暗い金属の箱が、今は「死の淵」へと続く唯一の乗り物になっている。
僕は、その地下病棟に長くいる看護師の一人として、ある少女――明かり――を受け持っていた。
彼女は、上の階の子供たちが憧れる「未来」から遠ざけられた存在だった。地下の空気は澱み、湿っている。でも、ここには嘘がない。地上の子供たちが信じさせられている「希望という名の残酷な期待」に、彼女はもう振り回されなくて済んだのだ。
「また、ここに来たね」
明かりは、金属製のベッドの上で僕の手を握る。この地下には、東京の喧騒も、パンデミックのニュースも届かない。ただ、僕と彼女の呼吸音と、食品用エレベーターが運んでくるかすかな機械の唸りだけがある。
「ねえ、秋生。上のみんなは、私たちがどこに行ったと思ってるのかな」
「地下の魔法の病棟で、お姫様みたいに過ごしてると思ってるよ」
僕は嘘を吐きながら、彼女の痩せた指先に触れる。地上の子供たちは、地下に行けば助かると信じている。僕たちはその嘘を守るために、彼女たちを社会から抹消する。それがこの病院の、そしてこの狂った時代の「優しさ」の形だった。
明かりが眠りに落ちると、僕は静かに彼女の手当てをする。彼女の皮膚は冷たいが、僕が触れている間だけ、この地下病棟は宇宙で一番温かい場所になる。
時折、上の階から運ばれてくる新しい子供たちの気配が、食品用エレベーターの扉越しに伝わってくる。彼らは、希望を抱いてその箱に乗り込み、扉が開いた瞬間に「ここが終わりだ」という現実を突きつけられる。
でも、僕は思う。
地上の無菌室のような、嘘に塗り固められた世界で、誰からも見られず、希望を消費されながら生きるよりも、ここで死を予感しながら互いの体温だけを信じて握り合う方が、よほど人間らしいのではないか。
明かりが目覚めて、不機嫌そうに僕の手を振り払う。その剥き出しの苛立ちすら、地上の「いい子」を演じさせられる日常より、ずっと純粋だ。僕は彼女の小さな拳を握りしめ、傷ついた指先をそっと撫でる。
この東京の地下深くに沈んだ僕たちの聖域。
ここには、誰も迎えには来ない。けれど、何者にも邪魔されない二人の時間が、確かに脈動している。
「明日は、何をしようか」
僕の問いかけに、彼女は少しだけ微笑んだ。地上の子供たちが夢見る未来よりも、僕たちのこの閉ざされた「今日」の方が、ずっと残酷で、そして何よりも愛おしかった。