パンデミック.新形コロナウイルス
この病院の構造を理解している者は、地上には一人もいない。
ナースステーションの最奥、看護師たちが束の間の休息を得る仮眠室。その突き当たりにある、古びたトイレのドアが、この巨大な迷宮の「真の入り口」だ。
表面上はただの清掃用具入れとトイレが並ぶ壁面だが、そのドアの背後には、地上の人間が想像もしない空間が広がっている。それは、最新の病院設備を隠蔽するための、あまりに古臭いカモフラージュだった。
「鍵は、各階のステーションの引き出しに隠してある」
僕は明かりにそう囁き、ナースステーションのデスクから重たい金属の鍵を取り出した。これさえあれば、どの階の仮眠室からでも、この「偽装エレベーター」を呼び出し、一気に地下へとダイブできる。
なぜ地下へ来る必要があるのか。地上の手術室で、隠さなければならないミスが起きた時、あるいは「処理すべき患者」が突発的に発生した時、病院は即座に地下のスタッフを呼び寄せる。
「ガタン……」
深夜、不意に仮眠室のトイレの扉が、何の予告もなく揺れることがある。それは、地上の手術室からの緊急搬送の合図だ。エレベーターは、病院の配管や空調ダクトの隙間を縫うようにして、地上のトイレの奥から地下の霊安室まで、垂直に貫通している。
順天堂や東大のような巨大病院で、エレベーターが「特定の曜日や時間」にしか動かないという噂は、この隠しルートの存在を隠すためのミスリードだ。実際は、地下のスタッフが鍵を差し込み、スイッチを入れた瞬間、病院という建物そのものが死を運ぶ巨大なベルトコンベアへと変貌する。
「明かり、隠れて」
僕は彼女を抱き抱え、トイレの個室の奥に押し込んだ。
壁面が音もなくスライドし、金属製の箱――職員用エレベーターが現れる。地上の看護師たちは、このトイレの扉の向こうに「死」が繋がっていることを知らない。ただ、清掃中の物音だと思い込み、恐怖を無視して業務を続けているだけだ。
エレベーターが地下へと下降する。
地上では今も、Wi-Fiを通じて「希望」の音楽が流れている。けれど、このエレベーターという名の消化器の中では、手術室で失敗した生命や、病院が消し去りたい記録が、ただの質量として圧縮され、地下へと送られていく。
「ここも、鍵で守られてるんだね」
明かりが僕の手に握られた鍵を見つめる。各階に一つずつ置かれたこの鍵は、病院の全階層を自由に行き来できる唯一の権限だ。しかし、それは同時に、僕たちがこの隠蔽工作の「永続的な共犯者」であるという証明でもあった。
地上と地下を繋ぐ、トイレという名の密室。
僕たちは鍵を差し込み、次の「処理」を受け入れる準備をする。地上のトイレから聞こえる、誰かが手を洗う水の音。そのすぐ裏側で、僕たちは死の真相を地下へと運び出し、誰にも見つからないように、この病院の「嘘」を完結させるのだ。
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