パンデミック.新形コロナウイルス
その病院の地下は、地上の清潔な空気が到達しない、別の時間が流れる異界だ。
ナースステーションの仮眠室にあるトイレのドア。その隠しスイッチに鍵を差し込むと、無機質な金属音が鳴り響き、エレベーターが地上の手術室階と地下の闇を繋ぐ。この箱の中は、しばしば「地獄の残響」に満ちる。
手術を終えたばかりの患者がストレッチャーの上で苦悶し、麻酔が切れる寸前の朦朧とした意識の中で「うぇっ」と吐き気と痛みの声を漏らす。それがエレベーターという密閉空間で増幅され、壁を伝って響く。だが、小児科の子供たちは別だ。彼らには、残酷なまでの「配慮」がなされる。
「卒業式が終わるまでは、意識を消さない」
それが病院のシステムだ。子供たちは全身麻酔の鎮静剤を打たれ、夢と現の狭間を彷徨いながら、自分たちの「卒業式」に臨む。完全に眠っているわけではない。歌声が聞こえ、友達の声がし、自分が祝福されているという感覚だけは残る。その温かい幻影を脳に焼き付けたまま、彼らはエレベーターの扉の向こう側――地下へと引きずり込まれる。
扉が開いた地下1階は、狂気じみた日常が広がっている。
そこには煌びやかなローソンや売店、まるでデパートのような売場が並んでいる。そのすぐ隣に、無機質な手術室があるという異常な配置。手術直後の患者を置くリカバリールームは、同時に「隠蔽のための部屋」でもあった。死因をねつ造し、カルテを書き換え、医療ミスという事実を闇に溶かすための、血の匂いのする書斎。
さらに地下2階へ降りると、そこにはディズニーランドから運ばれてきた、かつて子供たちを熱狂させた乗り物たちが鎮座している。使い古されたメリーゴーランドの馬は塗装が剥げ、観覧車は軋んだ音を立てる。ここでは1895ワットの人工太陽が、死を待つ子供たちの肌を焼き、カルシウムを維持させている。
だが、この遊園地の向こう側では、抗がん剤治療に耐えきれず発作で喉を掻きむしる子供や大人の絶叫が絶え間なく聞こえる。
「ねえ、秋生。また……誰かが消えたね」
明かりが遊園地のベンチで呟く。
地下だというのに、夜中でも人の気配が途絶えることはない。地下専用の搬入口からは、深夜にも関わらず遺族たちが忍び込み、秘密裏に骨を拾う。地上の世界では存在が消された彼らにとって、この病院の地下は、死者と生者がかろうじて手を繋ぎ合える唯一の場所なのだ。
僕たちは、隠蔽されたカルテと、隠しきれない死の匂いに囲まれて生きている。
コンビニのレジの音と、遺族のすすり泣き。売店の照明と、手術室の無影灯。これらすべてが「病院」という名の下で、誰にも邪魔されずに執り行われている。
僕は明かりの手を握りしめた。ここでは、善悪も死生も意味を成さない。ただ、この病院が用意した冷酷なシステムの中で、僕たちは看護師という仮面を被り、死にゆく者たちの声を記録し、その裏側で必死に愛を確かめ合うしかない。
「誰もここを見ない。誰もここを信じない」
エレベーターが再び重い音を立てて上昇していく。また一人、地上の「卒業生」が、夢を見させられたまま地下へ降りてくる。僕はカルテを開き、新しい嘘を書き込む準備を始めた。この病院という名の巨大な迷宮で、僕たちの夜は、永遠の沈黙へと向かって続いていく。
ナースステーションの仮眠室にあるトイレのドア。その隠しスイッチに鍵を差し込むと、無機質な金属音が鳴り響き、エレベーターが地上の手術室階と地下の闇を繋ぐ。この箱の中は、しばしば「地獄の残響」に満ちる。
手術を終えたばかりの患者がストレッチャーの上で苦悶し、麻酔が切れる寸前の朦朧とした意識の中で「うぇっ」と吐き気と痛みの声を漏らす。それがエレベーターという密閉空間で増幅され、壁を伝って響く。だが、小児科の子供たちは別だ。彼らには、残酷なまでの「配慮」がなされる。
「卒業式が終わるまでは、意識を消さない」
それが病院のシステムだ。子供たちは全身麻酔の鎮静剤を打たれ、夢と現の狭間を彷徨いながら、自分たちの「卒業式」に臨む。完全に眠っているわけではない。歌声が聞こえ、友達の声がし、自分が祝福されているという感覚だけは残る。その温かい幻影を脳に焼き付けたまま、彼らはエレベーターの扉の向こう側――地下へと引きずり込まれる。
扉が開いた地下1階は、狂気じみた日常が広がっている。
そこには煌びやかなローソンや売店、まるでデパートのような売場が並んでいる。そのすぐ隣に、無機質な手術室があるという異常な配置。手術直後の患者を置くリカバリールームは、同時に「隠蔽のための部屋」でもあった。死因をねつ造し、カルテを書き換え、医療ミスという事実を闇に溶かすための、血の匂いのする書斎。
さらに地下2階へ降りると、そこにはディズニーランドから運ばれてきた、かつて子供たちを熱狂させた乗り物たちが鎮座している。使い古されたメリーゴーランドの馬は塗装が剥げ、観覧車は軋んだ音を立てる。ここでは1895ワットの人工太陽が、死を待つ子供たちの肌を焼き、カルシウムを維持させている。
だが、この遊園地の向こう側では、抗がん剤治療に耐えきれず発作で喉を掻きむしる子供や大人の絶叫が絶え間なく聞こえる。
「ねえ、秋生。また……誰かが消えたね」
明かりが遊園地のベンチで呟く。
地下だというのに、夜中でも人の気配が途絶えることはない。地下専用の搬入口からは、深夜にも関わらず遺族たちが忍び込み、秘密裏に骨を拾う。地上の世界では存在が消された彼らにとって、この病院の地下は、死者と生者がかろうじて手を繋ぎ合える唯一の場所なのだ。
僕たちは、隠蔽されたカルテと、隠しきれない死の匂いに囲まれて生きている。
コンビニのレジの音と、遺族のすすり泣き。売店の照明と、手術室の無影灯。これらすべてが「病院」という名の下で、誰にも邪魔されずに執り行われている。
僕は明かりの手を握りしめた。ここでは、善悪も死生も意味を成さない。ただ、この病院が用意した冷酷なシステムの中で、僕たちは看護師という仮面を被り、死にゆく者たちの声を記録し、その裏側で必死に愛を確かめ合うしかない。
「誰もここを見ない。誰もここを信じない」
エレベーターが再び重い音を立てて上昇していく。また一人、地上の「卒業生」が、夢を見させられたまま地下へ降りてくる。僕はカルテを開き、新しい嘘を書き込む準備を始めた。この病院という名の巨大な迷宮で、僕たちの夜は、永遠の沈黙へと向かって続いていく。