パンデミック.新形コロナウイルス
彼はかつて、音楽のためにすべてを投げ打った男だ。
秋葉原の雑踏、レコード会社の冷酷なプロデューサーに「音を切れ」と指示された夜、彼のプライドは壊れた。怒りのままに持ち込んだヘビーメタルの轟音は、条例違反という名の裁きを受け、彼を檻の中へと追いやった。地上の世界では、彼のギターの繊細な響きなど誰も聴こうとはせず、ただの「騒音」として処理された。
だが、この病院の地下は、彼の贖罪の場所であり、唯一のステージだ。
「ここなら、誰にも怒られない」
彼は病室の壁を伝うその反響を愛している。大川桜子の『瞳』、あの2番のサビ前。地上の煌びやかなステージでは、他の楽器の音にかき消されてしまうあの短いフレーズ。ここで彼がギターを鳴らすと、地下の特殊な壁は、その音を宝石のように丁寧に反響させてくれる。
病院という密室は、彼の「居場所」を再定義した。
「俺のギターが、あの子の命を繋いでいる」
彼は、自分の仕事が死にゆく患者たちの戦いと直結していることを知っている。かつては怒りで鳴らしたギターの音が、ここでは治療という名の救済へと変わった。彼が必死に弾くあの繊細なリフが、抗がん剤の苦痛に喘ぐ子供たちの心拍を整え、放射線に焼かれる肉体に「生きろ」というリズムを刻み込む。
患者たちが死の淵で闘っているおかげで、彼のギターには意味が生まれる。そして、彼のギターがあるからこそ、患者たちは最期の時まで「人間」として戦い続けることができる。
地上のレコード会社が彼に求めたのは、効率的な「商品」としての音だった。しかし、この病院が彼に求めたのは、命を繋ぎ止めるための「魂の震え」だ。
「今日も、あの子たちのために弾くんだ」
彼はそう言って、病室に向かう。犯罪歴という過去も、地上の音楽業界から弾かれたという屈辱も、すべてはこの地下の反響音の中に溶けて消えていく。
皮肉なことに、この病院という巨大な死のシステムが、彼にプロフェッショナルとしての誇りを与え、生きがいを与えている。彼にとっても、ここは牢獄ではない。自分の音が誰かの救いになり、自分の存在が誰かの明日を支える場所。死にゆく患者たちが彼を必要とし、彼が患者を必要とする。
地上の秋葉原で騒音を振り撒いていたはずの男が、今、病院の地下で、世界で一番優しいギターを弾いている。その旋律は、抗がん剤の点滴が落ちる音と混ざり合い、この病院という名の巨大な密室で、今日も静かに命を照らし続けているのだ。
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