パンデミック.新形コロナウイルス
翌朝、まだ周囲が深い眠りに包まれている午前5時。病院の廊下に、似つかわしくない軽やかな鼻歌が響いていた。
レントゲンのおじさんが、いつもより遥かに早い時間にやってきたのだ。
当直明けのニコルが、すれ違いざまに怪訝そうな顔で声をかける。
「あれ、先生……? 今日は朝から随分と早いんですね」
「い、いや! なんでもないよ!」
おじさんはなぜかひどく慌てた様子で、ニコルを突っ跳ねるようにして足早に通り過ぎた。
その足でまっすぐ向かったのは、明りの病室――ではなく、遥の眠る病室だった。
「おい、起きろ遥! ……今日、急きょレントゲン検査が入ったんだ。今すぐ行くぞ!」
寝起きの遥を強引に起こし、車椅子に乗せて検査室へと連れ出す。
なぜ、こんな朝早くにわざわざ検査など――。おじさんの内心は焦りで埋め尽くされていた。理学療法士の正夫や、その妻である心理カウンセラーの茜がやって来る前に、どうにかして遥と二人きりの時間を作らなければならなかったのだ。昨夜、茜から「これ以上、遥ちゃんに余計なちょっかいを出さないでください」と厳しく釘を刺されていたため、彼らに見つかればタダでは済まないという危機感があったからだ。
人気のないレントゲン室の冷たい空気の中、扉を閉めた瞬間、おじさんの表情が急に歪んだ。
「……ううっ……」
還暦を過ぎた60歳のおじさんが、子供のように声を上げて泣き始めたのだ。
彼はぐしゃぐしゃになった顔のまま遥に駆け寄り、その車椅子の前に膝をついた。
「ごめんなさい……本当に、ごめんなさい……!」
涙と鼻水で顔を濡らしながら、おじさんは震える声で叫んだ。
「君は、お母さんをあんな事故で亡くして……そのうえ、お父さんはお母さんを裏切ってとっくに離婚していて頼れもしない。だから親戚たちも面倒臭がって、誰も君を助けようとせず見捨てた……。そんな孤独で、ボロボロになってしまった君を……、俺は、どうしても放っておけなかったんだ……! 人の気持ちを踏みにじって、本当のことをバラしたりして最低かもしれないけど……それでも、俺は本当に君が好きなんだ……っ!」
突然の告白と、大男が子供のように泣きじゃくる姿に、遥はしばらく呆然としていた。
しかし、怒鳴りつけるわけでも、冷たく突き放すわけでもなく、遥は静かに息をつくと、どこか達観したような、優しい目で目の前のおじさんを見つめた。
「……もう、泣かないでください。過ぎたことは、仕方がありませんから……」
むしろ、傷ついた自分のためにそこまで必死になってくれる不器用な大人の姿に、遥の凍てついていた心は、少しだけ温められるような不思議な感覚を覚えていた。
しかし、その直後だった。
ガチャリとレントゲン室の重い扉が開き、不審に思って後を追ってきたニコルや南ちゃんたちが飛び込んできた。
「ちょっと、どういうことですか朝早くから……! 昨日レントゲン撮ったばかりなのに、また検査なんて変じゃないですか!」
ニコルが鋭い視線を向け、南ちゃんたちも険しい顔でおじさんを問い詰める。
逃げ場を失ったおじさんは、冷や汗を流しながら、観念したようにうなだれた。
「……すいません。本当は、検査なんて……嘘です」
おじさんは小さく震える声で、絞り出すように本当の理由を吐き出した。
「……ただ、どうしても君と二人で話したかったんだ。検査にかこつけて連れ出して……、昨日言い足りなかった自分の本当の気持ちを、どうしても伝えたかった……それだけなんだよ」
それはあまりにも強引で、ルール違反で、大人の言い訳としては不格好極まりないものだった。
けれど、北の大地のように冷え切った世間の片隅で、計算も打算もなく、ただ剥き出しの不器用な本音だけをぶつけてきた男の姿に、病室の空気がふっと緩んだ。
取り繕った優しさよりも、泥臭いまでの本音が、傷ついた少女の心をそっとすくい上げていく。そんな静かな朝のひとときだった。
レントゲンのおじさんが、いつもより遥かに早い時間にやってきたのだ。
当直明けのニコルが、すれ違いざまに怪訝そうな顔で声をかける。
「あれ、先生……? 今日は朝から随分と早いんですね」
「い、いや! なんでもないよ!」
おじさんはなぜかひどく慌てた様子で、ニコルを突っ跳ねるようにして足早に通り過ぎた。
その足でまっすぐ向かったのは、明りの病室――ではなく、遥の眠る病室だった。
「おい、起きろ遥! ……今日、急きょレントゲン検査が入ったんだ。今すぐ行くぞ!」
寝起きの遥を強引に起こし、車椅子に乗せて検査室へと連れ出す。
なぜ、こんな朝早くにわざわざ検査など――。おじさんの内心は焦りで埋め尽くされていた。理学療法士の正夫や、その妻である心理カウンセラーの茜がやって来る前に、どうにかして遥と二人きりの時間を作らなければならなかったのだ。昨夜、茜から「これ以上、遥ちゃんに余計なちょっかいを出さないでください」と厳しく釘を刺されていたため、彼らに見つかればタダでは済まないという危機感があったからだ。
人気のないレントゲン室の冷たい空気の中、扉を閉めた瞬間、おじさんの表情が急に歪んだ。
「……ううっ……」
還暦を過ぎた60歳のおじさんが、子供のように声を上げて泣き始めたのだ。
彼はぐしゃぐしゃになった顔のまま遥に駆け寄り、その車椅子の前に膝をついた。
「ごめんなさい……本当に、ごめんなさい……!」
涙と鼻水で顔を濡らしながら、おじさんは震える声で叫んだ。
「君は、お母さんをあんな事故で亡くして……そのうえ、お父さんはお母さんを裏切ってとっくに離婚していて頼れもしない。だから親戚たちも面倒臭がって、誰も君を助けようとせず見捨てた……。そんな孤独で、ボロボロになってしまった君を……、俺は、どうしても放っておけなかったんだ……! 人の気持ちを踏みにじって、本当のことをバラしたりして最低かもしれないけど……それでも、俺は本当に君が好きなんだ……っ!」
突然の告白と、大男が子供のように泣きじゃくる姿に、遥はしばらく呆然としていた。
しかし、怒鳴りつけるわけでも、冷たく突き放すわけでもなく、遥は静かに息をつくと、どこか達観したような、優しい目で目の前のおじさんを見つめた。
「……もう、泣かないでください。過ぎたことは、仕方がありませんから……」
むしろ、傷ついた自分のためにそこまで必死になってくれる不器用な大人の姿に、遥の凍てついていた心は、少しだけ温められるような不思議な感覚を覚えていた。
しかし、その直後だった。
ガチャリとレントゲン室の重い扉が開き、不審に思って後を追ってきたニコルや南ちゃんたちが飛び込んできた。
「ちょっと、どういうことですか朝早くから……! 昨日レントゲン撮ったばかりなのに、また検査なんて変じゃないですか!」
ニコルが鋭い視線を向け、南ちゃんたちも険しい顔でおじさんを問い詰める。
逃げ場を失ったおじさんは、冷や汗を流しながら、観念したようにうなだれた。
「……すいません。本当は、検査なんて……嘘です」
おじさんは小さく震える声で、絞り出すように本当の理由を吐き出した。
「……ただ、どうしても君と二人で話したかったんだ。検査にかこつけて連れ出して……、昨日言い足りなかった自分の本当の気持ちを、どうしても伝えたかった……それだけなんだよ」
それはあまりにも強引で、ルール違反で、大人の言い訳としては不格好極まりないものだった。
けれど、北の大地のように冷え切った世間の片隅で、計算も打算もなく、ただ剥き出しの不器用な本音だけをぶつけてきた男の姿に、病室の空気がふっと緩んだ。
取り繕った優しさよりも、泥臭いまでの本音が、傷ついた少女の心をそっとすくい上げていく。そんな静かな朝のひとときだった。