シンデレラの網膜記憶~魔法都市香港にようこそ
 彼の瞳の奥にはどうしようもない絶望と狂気が潜んでいる。そんな男を信用して後に付いていくなんて…自分はどうにかしている。しかし、そんな彼女の後悔などお構いなしに、男は密集する高層ビル群に歩みを進める。都市計画とは無縁なこの一画で、ビル群の中でも一位二位を争う怪しいたたずまいの集合住宅。彼はその一室に彼女を導いていたのだ。

 モエは、この近寄りがたい独特の雰囲気を放っていたこのエリアが、どの政府の統治も届かない文字どおりの無法地帯「九龍城」という場所であることは後になって知った。巷では、犯罪者や売春宿、麻薬の売人などが集まる「魔の巣窟」と呼ばれ、多くの映画作品やゲームの舞台となったことで世界的によく知られる有数のスラム地域だ。

 
 ここの正式な地名は九龍城砦(クーロンじょうさい)。ジャンボ機が旋回しながら着陸するという「香港カーブ」で知られた旧「啓徳(Kai Tak)空港」の近くに存在している。ここでは、120×210メートルという狭いエリアに500を超えるビルが密集し、一時期は5万人にもなる住人が生活を送っていたという。
 寄り添うように建てられた通称ペンシルビル。文字通り鉛筆の先のように、細く尖がったビルに住人が密集したため、平均人口密度はおよそ畳2枚分に1人。このとても信じがたい人口密度のゆえか、香港政府の規制も行き届かず、衛生法なども順守されない状態となっている。実際、九龍城砦ではゴミの収集が行われないため、古くなったテレビや古い家具、捨てられたマットレスなどのかさばるゴミはビルの屋上に放置され、公共通路といえば異臭を放つ塵が散乱している。
 そんな荒廃とした環境ではあるが、実際のところ、多くの住民はごく普通の生活を送っていたようだ。確かに「犯罪の巣窟」という側面がなかったわけでないが、その極端な極悪なイメージは映画やドラマなどによって定着したといえなくもない。

 しかし、地名も、場所の由来もしらぬモエは、ただただその場の雰囲気に飲まれていた。ともすれば逃げ出したくなる気持ちを必死に抑えて男に従った。彼女には男についていかざるを得ない理由があったのだ。

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