シンデレラの網膜記憶~魔法都市香港にようこそ
 やがて男は、言いようもない匂いと湿った空気に満たされた小さなダイニングキッチンへ彼女を導くと、薄汚れたダイニングテーブルの椅子を顎で指し示す。そして、彼女が腰かけるのを見届けると、男はキッチンの入口にある柱に寄りかかり、目をつむって動かなくなった。

 モエの膝は、テーブルの下で小刻みに震えていた。なんとか震えを止めようと試みた。それも徒労に終わると、もういい。どうせテーブルの下で見えないのだから、とあきらめた。重要なのはテーブルの上に露見する上半身だ。彼女はそう自分に言い聞かせて、深く深呼吸し顎を上げ、そして胸を張った。弱い自分を他人に見せたくない。彼女が夫を失ってから今まで、自分に課していたコンプライアンスである。

 どれくらい待っただろうか。やがて白い長いひげを蓄えた老人が、少年を引き連れてキッチンに現れた。少年は老人の中国服の袖をしっかりとつかんではいたが、落ち着かない目であちこちを見ていた。よく観察すれば青年に近い年齢なのだろうが、少年としての印象が強いのは、彼が知的障害者であるからかもしれない。
 老人は、ダイニングテーブルのモエに対峙する位置に座ると、じっとモエを見つめた。モエはその瞳の中を探り、この老人とのネゴシエーションを有利に運ぶヒントを得ようと試みた。だが、ただそこには漆黒の闇しかない。いったいどんな生き方をしたら、こんな深い闇を瞳に宿すことができるのだろうか。もしかしたら、想像もつかないほどの残忍なことを見続けた結果なのか…。自分は無事にホテルに戻れるのだろうか。いや、無事に戻ったところでここへ来た目的を果たさなければ生きていく意味もない。

「空を舞う鳥が、なぜか海の底に潜ってきよったわい…こんなところに長居すれば溺れ死ぬのは承知だろうに…」

 老人が口を開いた。流ちょうな英語だった。モエも英語で応えた。

「…用がなければ、こんな恐ろしいところには来ません」

 モエは、第一声が震えずに言えたことは、奇跡だと思った。老人は返事もせずに黙ったままだ。

「私は纐纈モエ。あなたは、香港マフィア14Kのドラゴンヘッド(頭首)さんよね」

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