シンデレラの網膜記憶~魔法都市香港にようこそ
 タイセイは押し黙ったまま何の返答も返さなかった。しかし、梁裕龍先生は少し動揺している彼の表情を見て、自分が正しいことを確信し一方的に話し始める。

「『miR-124a』が発生するたんぱく質の発見は、今世紀最大の医学的発見であると言えませんか?…なぜなら、視覚認識から記憶のプロセスを解明する重要なカギとなるたんぱく質を発見されたのですから」
「いや…だから、過大評価していただいても…」
「いやいや、過大評価とは思いません…纐纈先生が仮説を立てられた視覚認識のプロセスはこういうことですよね。網膜にものを映すと、その神経細胞を形成する『miR-124a』が特殊なたんぱく質を発生する。そのたんぱく質を、神経細胞にある、translator(トランスレーター)が電気に翻訳して脳に伝え、大脳が解析するとともに、電気的なデータとして海馬に蓄積する」

 タイセイが落ち着かない様子で頭を掻き始めた。
 話の内容がわからぬエラではあるが、今度はエラがタイセイを心配し始めた。彼は明らかにイラつている。その原因が、梁裕龍先生の雄弁さであることは容易に理解できた。

 しかし、梁裕龍先生はそんなタイセイの様子にもお構いなしにしゃべり続ける。

「…そして、この仮説は、実は人類に歴史的変革をもたらすことになる…それは、記憶は電気的データだから、人が死んで生体機能を停止すると、つまり電気が切れたら海馬からすべてのデータは消えてしまう。しかし、たんぱく質は有機物ですから、死後も網膜に残る。別な言い方をすれば、今まで存在していないといわれていた『網膜記憶』が、実はたんぱく質という形で存在していた。そして、それを解析すれば、死後であっても目に映った記憶を復元することができる…」

 そう、だからこそタイセイはこのたんぱく質の発見と研究に疑問を抱いていた。
 死んだ人の目に映ったものを復元して、なんの有益なことがあるのか。たとえそれが、殺人事件の犯人探しであろうと、死後に個人の記憶を、ここまでだったら垣間見ていいという倫理的ボーダーラインは、いったい誰が決められるのか。


 どんな目的があろうと、個人の視覚的記憶は死後に他人に確認されるべきではない。幸福であろうが、不幸であろうが、人生で蓄積された個人の記憶は、その人の死とともに消滅すべきである。タイセイはそう信じていた。

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