シンデレラの網膜記憶~魔法都市香港にようこそ
「共産主義国家は、フィジカルなパフォーマンスをあげるドーピング薬の開発を推進するのに最適な国家といえます。他国がドーピングを阻止しようとして、どんなに検査を進化させても、それを上回るスピードで新たなドーピング薬を開発することができるのです。しかし、いくら肉体能力のパフォーマンスを高めても、常に戦いに勝利できるとは限りません」
「それが『網膜記憶』とどんな関係があるのです?」
「他者の記憶情報を移植することができれば、その追加された情報によって、より正確で斬新な判断が可能になります。『網膜記憶』は、いわば頭脳のドーピングです。それこそ肉体と頭脳のドーピングの両方が施されれば、どの国にも負けない常勝の戦士を作りえるとは思いませんか」

 いつのまにか、リーダーはアスリートを戦士と呼び変えていた。本音はそこなのか…スポーツに勝利するなんてことに最終目標を置いていないことが、よくわかった。
 頭脳のドーピング…。タイセイ自身は、自分の研究について、そんな利用の仕方があるなんて思いもしなかった。研究を葬り去ろうと決意した時は、ただ故人の記憶をのぞき込むことの倫理的問題ばかりを重視していた。しかし、このたんぱく質を、リーダーのコンセプトで活用されると、核エネルギーの発見から核兵器の応用へと突き進んだ過去と、同じ道をたどりかねない。このたんぱく質の発見は全く偶然だったのだが、今となってはその偶然を心から後悔せざるを得ないとタイセイは思った。 

「いや、申し訳ない。ちょっと興奮してしゃべりすぎたようですね」

リーダーは、タイセイのちょっとした沈黙の間に、その無表情を取り戻していた。

「さあ、移植の済んだ孫楊選手を、タイへ送り出しましょう。結果が楽しみですね、ドクター・コウケツ」

 孫楊選手を送り出したのち、宿舎に帰ったタイセイはその夜の食事が、妙においしそうだったことを覚えている。香ばしい香りに誘われ、思わず口に運びそうになるが、エラのメッセージを思い出し、我慢して時が過ぎるのを待った。
 だいぶ時間がたった。エラが準備した夕食がすっかり冷めてしまった頃、彼の部屋のドアにカギが差し込まれた音がした。監視が食器を下げに来たのだろうか。タイセイは今夜の食事を一口も口にしていないことを、なんて言い訳しようかと考えた。
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