シンデレラの網膜記憶~魔法都市香港にようこそ
すると、グリーンを読んでいた選手が突然グリーンラインから目をそらした。サクチャイは彼がまっすぐ自分を見つめていることに気付いた。やがて、あろうことか目を真っ赤にして大粒の涙を流し始めたではないか。
中国人の選手は、流れ落ちる涙を拭おうともせずグリーンを降りると、まっすぐサクチャイの前に進んできた。意外にも、中国人の選手はタイ語でサクチャイに話しかけてきた。
「我が子よ。なぜそんな悲しい顔をしているのだ。お前さえ幸せならば、私なぞどうなろうといっこうにかまわないのだよ」
サクチャイは、驚きのあまり腰が抜けたようにひざまずいた。いきなり知らない中国人がタイ語で話しかけてきたからではない。その彼の瞳の中に彼の敬愛する人の姿を見出したからだ。
「おとうさん…ごめんなさい」
そういうと、サクチャイは人目もはばからず泣き崩れた。
中国の選手は、やがてはっと我に帰った。この目の前のタイ人を見て、自分の体の中に、もうひとり別の誰かが出現してきた。俺でない誰かが、俺の頭の中にいる。それを自覚した時の恐怖は筆舌に尽くしがたいものだったに違いない。彼は頭を抱えて絶叫すると、大会を投げ捨ててコースの外に走り出した。
確かに孫楊選手の網膜に移植されたのは記憶である。だがそれは単なる視覚情報ではなかった。記憶とは、その持ち主の人生そのものでもあったのだ。
(完)
中国人の選手は、流れ落ちる涙を拭おうともせずグリーンを降りると、まっすぐサクチャイの前に進んできた。意外にも、中国人の選手はタイ語でサクチャイに話しかけてきた。
「我が子よ。なぜそんな悲しい顔をしているのだ。お前さえ幸せならば、私なぞどうなろうといっこうにかまわないのだよ」
サクチャイは、驚きのあまり腰が抜けたようにひざまずいた。いきなり知らない中国人がタイ語で話しかけてきたからではない。その彼の瞳の中に彼の敬愛する人の姿を見出したからだ。
「おとうさん…ごめんなさい」
そういうと、サクチャイは人目もはばからず泣き崩れた。
中国の選手は、やがてはっと我に帰った。この目の前のタイ人を見て、自分の体の中に、もうひとり別の誰かが出現してきた。俺でない誰かが、俺の頭の中にいる。それを自覚した時の恐怖は筆舌に尽くしがたいものだったに違いない。彼は頭を抱えて絶叫すると、大会を投げ捨ててコースの外に走り出した。
確かに孫楊選手の網膜に移植されたのは記憶である。だがそれは単なる視覚情報ではなかった。記憶とは、その持ち主の人生そのものでもあったのだ。
(完)


