消えた卒業式とヒーローの叫び



「八百屋さん本当に優しいよね〜!受験頑張ってねって値引きしてくれたんだよ!本当に感謝しかない!」

 日彩は自分の人望を一切ひけらかすことなく、袋の中で眠る色とりどりの野菜を見て微笑んだ。本当に同じ血が流れているのかと疑いたくなるほど、可愛らしい妹だと思う。

「そういえば日彩、受験勉強は大丈夫? 第一志望、あの有名私立高校でしょ?」

 私が声をかけると、流れるポニーテールを振り回す勢いでこちらを向く。ほんの少し見上げる形で、大きな瞳に私を映した。

「多分大丈夫!この前の最後の模試でもA判定だったよ。油断はできないけどね」

 世に言う完璧とは、この子のような人を言うのかもしれない。

 日彩は真っ直ぐに伸びる道の先を見ていた。彼女にはどんな世界が見えているのだろう。きっと私とは全く違っていて、目に映るもの全てが輝いているように思えた。

 冷えた黒いコンクリートとの差は歴然だ。

「日彩は本当に凄いね。私には無理だよ……」

「えへへ。だってその学校に入りたいからね! お姉ちゃんは? 春から大学受験生になるけど、やりたい事とかないの?」

 吐いた息が、白く濁って視界を汚した。

 自称進学校と言われる公立高校に通う私は、もうすぐ受験生になる。既に受験勉強を開始している賢いクラスメイトもいた。

 そんな中、私は何をしているのだろうか。

「今興味あることとかは? 最近ずっと部屋に籠ってない?」

 答えられない私に、屈託のない笑みを向けられる。彼女から溢れ出る空気の種は、何故かキラキラして見えた。

「映画研究部……とかかな」

「映画研究部!?」

 日彩の反応は概ね予想通り。

 今年の文化祭で映画研究部が発表したのは短編のアニメーションだった。全校生徒が集まる体育館で、大きなスクリーンに映し出されたそれは、太陽の光がカーテンの隙間から降り注ぐ悪条件の中で、とてつもなく美しい世界を描いていた。

 誰もがその映像に釘付けだったと思う。

 滑らかな動き、光の当て方、間の使い方、風景や心情をも自在に操っているような。私はその虜になったのだ。

 そして、同時に何か不愉快な感情が芽生えた。曇りがかったような、手を伸ばしてみても見つけられない、得体の知れない思いを探して藻掻く。

 あの綺麗な景色を掴みたいと、ひたすらに願った。

 欲しかったのだ。紛れもない嫉妬だ。

「ねぇ、あれ作った人、中学の時どこかのコンテストで入賞したらしいよ」

 もちろんその会話の相手は私じゃない。Finの文字と共に、まるで魔法が解けたかのように体がだらりとした瞬間、近くに座るクラスメイトが話しているのを聞いたのだ。

「ええ! うちの学校にそんな凄い人いたの!?」

 シンプルな紺のスカートで覆われた膝を、更に固く腕に寄せる。

 私だって描いてる。そう心が叫んでいた。
 誰かに言う勇気はない。でも誰かに見て欲しいから、風のようにさらりと投稿してしまうほどに、本当の私は承認欲求の高い人間だと気付いていた。

 以来、映画研究部の存在が気になって、度々部室である教室を覗きに行っていた。

 カーテンが掛かっており、中の様子を詳しく見ることは不可能だった。だが、カーテンが揺れた一瞬を見たことがある。

 数台のパソコンと、液晶タブレット。何台ものカメラ。

 それだけで満足だった。人と関わることは苦手だから。

 ただもし、その世界に入ることが出来たなら、私もあのような美しい映像を生み出すことができるだろうか。そんな考えは妄想でしかなかった。

「え、いいじゃん! 入ったらいいのに! お姉ちゃん何の部活にも所属してないんでしょ?」

 何を迷う必要があるのかといった顔色で声高らかに述べる日彩。

 ビニール袋が一歩進む度にガサガサとうるさく揺れていた。

「今更だよ、もうすぐ引退だろうし……。それに、人と関わるのはちょっと……」

「今は今しかないんだよ! 興味があることや、やりたいことがあるなら今すぐやらなきゃ!」

「ええ……」

 今は今しかない、という言葉は日彩の口癖だった。日彩は幼い頃から度々大きな病にかかり、何度か入院の経験もあるせいか、いつしか彼女自身の人生論を持つようになったらしい。

 日彩の前向きさは、それを自覚することにより次第に強くなっていったように感じる。
 こんな私でも日彩の言葉や明るさに救われているのは事実だ。

「ーー永遠(とわ)?」

 日彩との会話を止めるように、数メートル先に立つ男がそう言った。低く通るその声の主は、黒縁の眼鏡をかけ、同じようにビニール袋を手にしている。

 レンズを挟んで瞳孔が捕えるのは、明らかに私だった。

「あ、いや……ほら、たまにうちの部を見に来てただろ?」

 我に返ったかのようにふためく男に、見覚えはない。少し怖くなって、気付かれない程度に後ずさりをし、地面に目線をずらした。相変わらずそれは黒かった。

「お姉ちゃんのお知り合いですか?」

 日彩が堂々と尋ねる。すると相手は冷静さを取り戻したのか、咳払いを一つついて話し始めた。

「同じ高校に通ってる上原です。映画研究部の部長をしてるんだけど、何度か教室見に来てたなと思って」

 私は思わず顔を上げて、その人を見てしまった。まさか部員の人に見られていただなんて。掻き出すように言い訳を探すも、真っ白になった脳内には、触れられる言葉すら無かった。

「え! 映画研究部の方なんですか! 丁度良かったです。お姉ちゃんが映画研究部に興味があるみたいなので、仮入部か何かをさせて頂けませんか?」

「ちょ……」

 勝手に話が進んでいく。日彩ならやりかねないと思った。やはり話すべきじゃなかったのかもしれないと、既に変えられない過去になってしまった会話について後悔した。

「いいよ。じゃあ永遠、月曜日の放課後に部室来いよ。来なかったら教室まで迎えに行くから」

 それじゃ、と言ってあっさりと日彩の隣を通過していく上原という男。

 日彩は姉をよろしくお願いしますと言わんばかりの顔色で会釈していた。

「え? ちょ、ちょっと待って……なんでこんなことになってるの?」

「え? 興味あったんでしょ? こんな所で部長さんに会うなんて、ナイスタイミングだね!」

 後の出来事の当事者にならない日彩は、楽観的な未来を想像していたに違いない。

 お節介だと言えば良かったのだろう。でも頭の良い日彩は、それほど鈍くない。私のことをよく分かっているのだ。

 人と関わることは確かに苦手だが、映画研究部に行ける口実を作ってくれた日彩に、複雑な感情が交錯する。

 私はわざとらしく肩を落として沈んでみせた。

 一番厄介なのは、複雑な感情を持ちながら矛盾した行動をとる自分だと、夕食のカレーについて話す日彩を見つめながら、ぼんやりと考えた。

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