可愛らしさの欠片もない

一度だけ、テーブルの上に置いた甲斐さんの携帯が震えていたのを見たことがあった。
明るくなった画面。『杏胡』と表示されていた。直ぐ留守電になった。何もメッセージは入れられてるようではなかった。
別に疚しくないから置いていたのだと思う。どんな相手からの連絡も、見られたくない人は伏させて置くものだ。
多分、きょうこ、と読むのではないかと思う。そしてそれは多分、奥さん。だと思った。…もしかしたら、クラブのママ、かもしれないが。
汗を流して来るとシャワーを浴びて直ぐ戻って来た甲斐さんは、着信のあった携帯を見ただけだった。直ぐ返す必要のない相手。…ここでは連絡出来ない相手…。しない相手…。
折り返すなら帰ってからだろう、当然そうだろうと思った。…部屋を出たら直ぐかもしれない。
甲斐さんは身支度を整えると帰って行った。
それ以上は考えないことにした。

それから、これも、特に気にしなければ気にならないこと。
離婚の手続きをしていても、指輪はしているということだ。そのことに別に意味はないのかもしれない。意味はあるのかもしれない。男女では、考え方の違い…なのかもしれない。
別れを決めたとき、形式云々とは関係なく、指輪は外すのではないかと思った。確かに私には結婚も離婚も実体験がないから、そういうことに直面したとき、どんな心境の別れならそうなるのか解らないけど。激しい感情を伴わない別れ、だからなのか…。
比べてはいけないのかもしれないけど、恋人と別れて、指輪はしないと思う。例外的には、全然気にしなくて、気に入ってる指輪だからつけてるって人も居るだろうとは思う。ごく普通の、細かい装飾も石もない結婚指輪でそれがあるかっていうと、どうなんだろう。
妻帯者なら、仕事上、つけておいた方がいいということもあるだろう。離婚を公に出来ないからとか。ぶっ飛んだ考えをするなら、女避けのため、とか。してあることで余計な誘いを受けずに済む、みたいな。
私が見かけたときは見てなかったから解らないけど、私が話をしたときはしていた。離婚の調停中だと言った。多分、ずっと外したことはないんだ。していたんだ。
そして、今も、甲斐さんの薬指には指輪がある。
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