きみがため
すがるように、手にした本を眺めていた。

いつも入り浸っている、入院棟の図書室から持ち出したものだ。

『後拾遺和歌集』――和歌を見るのは好きだった。

昔の人も、今の自分たちと同じように、悩んだり苦しんだりしているのが面白かった。

これを詠んだ彼らの存在はとっくに消えてるけど、想いだけが、こうして何年ものときを経て残っている。不思議な感じがした。

僕もいつかは消えるのだろうと、いつも思っていた。

手術が成功したとはいえ、この身体が持つ保証はない。

“普通”じゃない僕は、周りの人を不幸にしている。早く消えた方がいい。

霧や煙が、あとかたもなく消滅するように。

ページを、ゆっくりとめくる。

君がため 惜しからざりし 命さへ ながくもがなと 思ひけるかな

どういうわけか、繰り返し見てしまう和歌だった。

“君に会うためなら死んでも構わないと思っていた。だけど今は君に会うためにいつまでも生きていたいって思う”

この歌を詠んだ藤原義孝は、数年後に若くして亡くなった。

それを思うと、とても悲しい和歌のように感じる。

なのに、不思議とあたたかい。

「何を読んでるの?」

ふいに耳元で声が聞こえて、僕は飛び跳ねそうになった。

振り返ると、女の子が、ひょっこりと本を覗き込んでいる。

茶色い肩までの髪の、あどけない顔をした女の子だった。

上目遣いで首を傾げられて、僕は慄いた。

子供は苦手だ。僕だってまだ子供ではあるけど……。

「……本」

そっけなく答えると、「和歌でしょ? 百人一首、したことあるよ」と女の子が無邪気に答えた。知ってるなら聞くなよ、と僕はますますムッとした。

「私、水田真菜っていうの。お父さんが検査に行っちゃったから、今暇してるの」

女の子は、どこまでも無邪気で屈託のない笑みを浮かべる。

どうやら父親が入院しているらしいことに、少し同情を感じた。

「お兄さんも暇してるの?」

「……暇といえば暇だけど……」

「百人一首って、暗号みたいだよね。前から思ってたんだけど、“君がため”ってなにかの技? “卍がため”みたいな」

女の子が、“君がため”を指差しながら言う。

僕は、久しぶりに吹き出した。

「なんで“卍がため”なんか知ってるんだよ」

「お父さんがプロレス好きなの」

うれしそうに、女の子が笑う。

少し気持ちの綻んだ僕は、『後拾遺和歌集』に目を落とした。
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