かりそめお見合い事情~身代わりのはずが、艶夜に心も体も奪われました~
「今日はきみのおかげで、楽しい時間が過ごせたよ。ありがとう」


慌ててこちらも立ち上がった私は、ごく自然に差し出された右手を条件反射で握り返していた。


「あ、はい、こちらこそ……ッ、」


リップサービスがすごいなあ、とぼんやり考えていた私は、彼によって掴まれた手を思いがけなく引かれたことでバランスを崩す。

前のめりによろけた私のひたいが、奥宮さんの胸にぶつかった。驚きで硬直してしまった耳もとに、低い声が落ちる。


「──また」


たった2文字だけをささやいて、いとも簡単に奥宮さんの体温が離れる。

呆然と立ち尽くしていた私が我に返ったときには、すでに彼はお会計を済ませたところだった。


「っあの、ごちそうさま、でした……!」


ジャケットの内ポケットに財布をしまう奥宮さんを見上げ、その整った横顔に声をかける。


……言わなきゃ。
“今日はありがとうございました”。
“私も楽しかったです”。
……“さようなら”、って──。


「………あ、」


言葉が、出て来なかった。

こちらに視線を向けた彼が何事か口を開こうとしたその瞬間、すぐそばで振動音が聞こえてくる。


「ああ、ごめん」


どうやらそれは、奥宮さんのスマートフォンだったらしい。

ラウンジを出たところで取り出したそれを耳に当てた彼の後ろ姿を、少し離れたところからぼうっと眺める。

……ダメだ。
これ以上は、ダメだ。

言いようのない息苦しさを覚えた私は、奥宮さんの背中から目を離さないままジリ、と後ずさる。
そうしてスマートフォンを当てたままふとこちらを振り向いた彼と視線が交わりそうになった瞬間、弾かれたように踵を返した。


「立花さん!」


後ろから、私を呼ぶ声が聞こえた。

だけど立ち止まることなく、ほとんど逃げるように早足でロビーを通り抜ける。

そうしてホテルの外に飛び出すと、すぐ近くに停車していたタクシーに合図してすぐさま乗り込んだ。

……最低だ、私。
ちゃんと、挨拶もしないで……。

だけど、これで良かった。
どうせもう、会うことはないんだから……これで、良かったんだ。

まるで言い聞かせるように、何度も胸の中で繰り返す。
今の自分がひどく泣きそうな顔をしていることに気づかないまま、私は深く座席にもたれたのだった。
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