死のうと思った日、子供を拾いました。
一章 絶望の底で

 結婚式を当日キャンセルした俺は、スーツに着替えて会社に向かった。向かうのは自分のデスクではなく、社長室だ。

★★

「失礼します」
 ノックをしてから、社長室の中に入る。

 社長の涼風隼斗《すずかぜはやと》さんは、部屋の奥にある出窓のそばにあった革張りの椅子に座っていた。椅子の前にはデスクがあって、その上には受話器と照明と筆記用具が置いてあった。
 首のあたりまで伸びた黒髪が朝日に照らされて光っている。昨日まで顎にあった無精髭はすっかりなくなっていた。……結婚式に出るからって剃ってくれていたのか。瞳が一重で垂れているから、髭がないといつもより五歳くらい若く見える。

 社長のデスクの上に、退職届を置いた。
「すみません。会社、辞めさせてください」
 頭を下げて懇願する。

「矢野、本当にそれでいいのか?」
 目尻を下げ心配そうな顔をして社長は言う。俺は何も答えられず、ただ口をつぐんだ。

「……矢野、お前は優秀だ。真面目で、責任感もある。矢野、俺はな、お前をもうすぐできる新しい個会社の副社長にしようとも考えていたんだぞ。正直、お前を失うのは俺もかなり惜しいんだ。もう少し考えてくれないか。なんだったら、一、二か月くらい休みをとってもいい。頼むから、やめるのだけはよしてくれ」
 社長が椅子から立ち上がって、頭を下げる。俺は慌てて顔を上げた。
「やっ、やめてください。……社長のお気持ちは凄く嬉しいですし、有難いと思います。でも正直言うと、一、二か月でどうにかなるものではないんです。なんとか復帰できたとしても、きっとミスばっかしちゃうと思います。そんなんじゃ、流石に迷惑でしょう?」

 社長の言い分は本当に心底嬉しかったし、三年真面目に働いていたのが実を結んだんだと思うと、凄く誇らしかった。

 でも、それが会社をやめない理由にはならない。そんなことが理由で踏みとどまれるなら、そもそも退職届なんて書いていない。

「……どれくらい休みたいんだ」

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