もう二度ともう一度

「視聴覚室で愛をキミに」

 早川は黒板を見て、なにも反応しなかった。この辺りの落ち着き、流石に中年男性である。
 席に座ったままなにも言わなかった。早川からすれば、沈黙は金なのである。

「おい早川、切腹させられっぞ!」

 他の生徒達が囃し立てても、誰か書いたか分からないモノに、なんの真実があるのか?と逆に問い返しただけで、担任がイジメの助長になりそうな物は消すだろうと思っていた。この程度は酸いと苦いしか噛み分けていない彼には、極めて小事であり己が身を焼く火にもならないのだ。

 しかし、早川は読み違えていた。今日は担任教師は昼には早退していて、代わって副担任である峰咲が扉を開けたのだ。この瞬間、短くも黒板に書かれた激文は燃え上がる炎と化す事になる。

『しまった!?』

 後悔しても遅い、いち早く消すべきだった、本来担任の男性教諭であるいい加減な西山であれば、「おいおい、早川も大変だなぁ」と黒板をキレイにし、さっさとホームルームを終わらせたハズだった。
 

「まずいぞ・・!」

 早川は小声で心境を漏らし俯いて机を見た。峰咲と言う女教師がどんな人物かよく知っていたからだ。
 それは良くも悪くも地球上のどの女より女、と彼は考えていた。
 当然、恋愛脳でありフェミニズムの塊である。これは最悪のタイミングに、最悪の敵が現れた事を意味する。

 もし仮にこれが計算されて成されていた企てと言うのなら、相手は相当の策士だと言う事だ。

「ちょっとぉ、なにこれぇ〜?コレ、書いた人と、早川クン・・あ、でもちょっと先にホームルーム始めまぁす!」

 甘ったるい喋りで進行し、最後に書いた人と早川は残って視聴覚室に来るようにと指示された。

 これは「逃さんぞ」と言う事だ。それは峰咲自身がこう言う問題が大好物であるからに他ならなかった。


 今、早川にとってもっとも長い放課後が始まろうとしていた。
 視聴覚室の真ん中に座り、まだ来ない峰咲を待った。おそらく、アレを書いた女生徒達のプライバシーのみを尊守し、その主張を聴いているのだろう。

「早川クン、お待たせぇ〜遅くなりました!・・えぇっとね〜」

・女の子の気持ちを弄んでいるのか?

・高見真知子に乗り換えるつもりか?そうでなければ、なぜ距離を置こうとするのか?

・野々原あずさをどう思っているのか。

 であった。早川としては恋愛カルトみたいなこの先生の言葉を、そのまま脳に入れると洗脳される恐れもある為、自分の意思を強く維持しつつ極力論理的に受け止めようと心がけた。

「それは・・」

 早川はまずこの峰咲先生の事を思い出していた。かつて、彼女にこう言われた事があったのだ。

【いつもクラスの中心で、楽しそうにしていても本当は影のある、孤独なコ】

 だった。彼は以来、心の中心地点を覗かれた事はほとんど無かったと回想する。そしてそれは今でもその強烈なキャラクターと共に覚えている。
 もっともそれは、【一度目】の事で【今回】の話ではないが。しかし、それだけに彼女を前に嘘も建前も通用しない事を悟っていた。

「俺は、いや僕は、野々原を・・野々原は好きですよ。本当に大切な人の一人です」

「だったらねぇ」

 遠い昔から、野々原あずさに対してずっと思っていた気持ちを掘り起こしていた。

「先生、僕は勉強だって必死で頑張ってああなんです・・家だって、母親と二人でなんとか生きていくのがやっとです。決して裕福じゃありません。そして、世間じゃバブル崩壊とかって、これから段々不景気にもなっていくんです」

 早川は今までの辛かった情けない半生を思い出していた。これからはまた違うかもしれないが、やはり野々原を巻き込みたくないと今も思った。


「でもねぇ、だからっていきなりお友達もやめるって、野々原さんは傷付くよぉ?」

 そんな事は自分が一番わかっている、早川はそんな甘い男だ。

「小さい傷は、治ります・・しかし、このままではそれはいずれ取り返しがつかない大きな傷になるんです」

 早川はそのまま、心の中に浮かんで来る言葉を掬い取っては繋いでいく。

「ですから、今なら遅くない。遠ざけないといけません。自分の様な人間は他人の好意を受けるワケにはいかない。・・それが彼女であれば尚更なんです!」

 重い、余りにもそれは重いと峰咲は思った。故に、中学生らしい青春的な交際もあると訴えた。

「僕にはその気持ちを殺すしかない!」

 二人の想いは自らの予測をはるかに越えていて、峰咲もなんだか自分に熱いものが込み上げて来ているのを感じた。『コレだ!私が見たかったモノは』と内心燃え上がった。

「早川クンね、人間は完璧じゃないの。生物が男と女、二種類で対なのはお互いが相互補完する為にそうなっているのよ?」

 早川が既に己を捨てていると知ると、理科担当教員らしい説得もする。しかし、彼は頑なだった。

「僕では足りません、野々原を不幸にするだけだ・・」


 束の間の静寂、お互いの主張は主張を制し膠着状態の体をなした。峰咲は最後にと言って、何故そんな風に怯えるのか?そんなに悲観的なのか、自分の疑問をぶつけた。

「それは、愛しているからです・・心から彼女を愛してしまったからです」

 それを言った後、早川の心にはもうなにも残ってはいなかった。

「わかりました・・」

 峰咲は、今まで見たどの解答よりもパーフェクトである。そう感じていた。


 そして、早川に自分の口からは他人に絶対言わないと約束し、もう帰るようにも言ってくれた。

「先生、戸締まりあるから先に帰りなさぁい」

 そんな峰咲に一礼し、早川はその場を後にした。

『ありがたい先生だったんだな・・』

 神の前で、震える罪人の様に懺悔した心地だった。そんな早川の気持ちは軽かった。
 永遠に、閉じ込めておかなければならなかった自分の胸の内を、誰かに聴いて貰えたからだ。






「はぁい、もういいわよ〜」

 その声を、スピーカーが拾っていた。視聴覚室とは文化的な学習の為、映像や音声などを収録したり、編集したりする機械室が内側にもう一部屋あるのだ。

 マイクは一部始終の会話を拾い、スピーカーは眩しいぐらいに傷ついた愛を叫び続けていた。

 その奥の一室には、雫を垂れたリンゴの赤の様に顔色を染めた野々原あずさが座っていた。


 確かに、約束の通り自分の口からは何も言ってはいないが、すべてダイレクトにそして臨場感もバッチリで筒抜けであった。
 峰咲の粋な計らいと女達の術中に嵌り、その心の全てを曝け出した早川なのであった。
< 17 / 43 >

この作品をシェア

pagetop