もう二度ともう一度

「野々原あずさ」

 そして大会当日がやって来た。早川はロクに競技を観もせずに、昼過ぎの自分の出番をジッと待っていた。
 意外に観衆が多いのだ、こんな状況に晒される事のない大人としては緊張も生まれてしまう。とにかく精神集中が難しい。

『確か、あの【野々原】からバトンを受けた俺は一人抜いて三位だった・・なんとなく思い出して来たな。だが、今回は後一人追い抜く。なにかしら成果は欲しいからな』

 野々原とは今年初めて早川と同じクラスになった、彼には本当に因縁深い娘だった。今日まで関わりを避けて来たが、プログラムが刷られたわら半紙を見てそんな出来事も思い出していた。そんな中で放送が昼食の時間を告げる。早川達生徒は一時、教室に戻って来た。

「お前、変わった昼飯だな〜」 

 男子生徒がバナナとおじや、炭酸抜きコーラを胃に流し込む早川を見て言ったが彼はお構いなしにトイレに消えて行った。



『エラく緊張してきた・・沈まれ、今の俺なら勝てる』

 個室の壁にもたれ、精神統一を行っていた。

『そう、前の奴らを・・』

 そう思った時、あの子供と事故を思い出した。身体は緊張して固まる。

『クソ・・そうかこんな時は、そうだ!』


 そこから、早川は声を出して独り言を言い始めた。彼特有の、リラックスする為の魔法の呪文だ。

「そうさぁ俺はスーパーマンだ!不死身の男、早川だ!」

 便所の壁をパンッと叩き、誰になのか何故かウインクをした。

「なぁに、俺にとっちゃぁこんなのは子供のお遊びさぁ!」

 ブツブツ言いながら便所を出てきた、眼を閉じて半笑いだ。

「さぁ、観衆と勝利の女神サマがお待ちかねだぜ。俺がぶっちぎりでゴールに飛び込むのをな!」

 たくさんの生徒がグランドに流れていく。その中で早川を見つけて声を掛ける生徒がいた。

「ねぇ!」

「フッ、そぉらせっかちな女神サマの声がさっそく聴こえて来やがったぜ、ちょっとフライングだがな!」

 早川は背筋を伸ばして、ゆっくり歩いている。まだ呼び止めてもまだ振り返らない。

「ねぇって!アンタ、ちゃんと走れるの!?ちゃんとしてよね!」

 早川は自分の世界に浸ったまま、やっと振り返って言った。



「心配いらないさ、俺が金メダルをプレゼントしてやる!ピカピカのな。だからあンたは、安心してゴールで待ってりゃいいのさぁ、祝福のキスの準備をしてな!」

 この時、早川は初めてあの野々原さんと会話してしまった。
 帰宅後、彼は愛蔵書「コブラ」を身を切られる思いに涙を流しながら全部捨てた。
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