心の鍵はここにある
高校時代ー出会いー
今を遡ること十四年前――
私の父は転勤族で、中学二年の夏に高知県高知市から父の地元である愛媛県松山市に異動となり、一家で松山に引っ越してきた。
父は香川県高松市に本社のある運輸会社に勤務しており、異動は四国内だけだったけれど、幼少の頃より転勤で各地を転々としていた。
私が小さい頃は、頻繁に出張等で家を空けることの多かった父もそれなりの役職に就き、異動も県庁所在地のある大都市のみとなったのは、前回の異動からだ。
父の異動が決まるたび、引っ越しと転校の繰り返しだった私は仲良くなった友達とのお別れがつらくて、いつも泣いてばかりいた。
あの時、高知から松山に引っ越すことが決まった時も、お別れがつらくて父の異動が決まった日から、一人になると隠れてずっと泣いていた。
松山に引っ越して、ここでも友達に恵まれた私は、友達と一緒の県立高校に無事合格した。
愛媛県は私立高校のほとんどが松山に集中しているせいで、県内各地からの受験者数が多く、滑り止めとはいえ私立の合格発表も県立の合格発表も、気が抜けなかった。
松山には父方の祖父母が住んでおり、幼少の頃から夏休みなどの長期休暇になると、よく泊まりがけで遊びに行っていた。
高校に進学すると、祖父母の家の近所に住む幼馴染にも再会し、楽しい高校生活が始まった。
こちらに住む昔からの友人は彼女だけだったので、とても心強かった。
そして同じクラスになったその友人、守野さつきに誘われて、私はバレー部のマネージャーになった。
さつきは中学の頃から好きな先輩がいるとかで、その先輩を追いかけてこの高校に来たらしい。
その先輩は同じバレー部の先輩だけど、ミーハーだと思われたくないからと、さつきは女子バレー部に入部した。
そんなさつきに誘われて女子バレー部のマネージャーとして入部したはずなのに、女子は定員を満たしているからと、男子の方でマネージャーがほしいと部長同士で協議した結果、気付けば私は男子バレー部のマネージャーになっていた。
私の父は転勤族で、中学二年の夏に高知県高知市から父の地元である愛媛県松山市に異動となり、一家で松山に引っ越してきた。
父は香川県高松市に本社のある運輸会社に勤務しており、異動は四国内だけだったけれど、幼少の頃より転勤で各地を転々としていた。
私が小さい頃は、頻繁に出張等で家を空けることの多かった父もそれなりの役職に就き、異動も県庁所在地のある大都市のみとなったのは、前回の異動からだ。
父の異動が決まるたび、引っ越しと転校の繰り返しだった私は仲良くなった友達とのお別れがつらくて、いつも泣いてばかりいた。
あの時、高知から松山に引っ越すことが決まった時も、お別れがつらくて父の異動が決まった日から、一人になると隠れてずっと泣いていた。
松山に引っ越して、ここでも友達に恵まれた私は、友達と一緒の県立高校に無事合格した。
愛媛県は私立高校のほとんどが松山に集中しているせいで、県内各地からの受験者数が多く、滑り止めとはいえ私立の合格発表も県立の合格発表も、気が抜けなかった。
松山には父方の祖父母が住んでおり、幼少の頃から夏休みなどの長期休暇になると、よく泊まりがけで遊びに行っていた。
高校に進学すると、祖父母の家の近所に住む幼馴染にも再会し、楽しい高校生活が始まった。
こちらに住む昔からの友人は彼女だけだったので、とても心強かった。
そして同じクラスになったその友人、守野さつきに誘われて、私はバレー部のマネージャーになった。
さつきは中学の頃から好きな先輩がいるとかで、その先輩を追いかけてこの高校に来たらしい。
その先輩は同じバレー部の先輩だけど、ミーハーだと思われたくないからと、さつきは女子バレー部に入部した。
そんなさつきに誘われて女子バレー部のマネージャーとして入部したはずなのに、女子は定員を満たしているからと、男子の方でマネージャーがほしいと部長同士で協議した結果、気付けば私は男子バレー部のマネージャーになっていた。