月に魔法をかけられて
「泣いたりなんかしてすみませんでした。すぐに片づけてコーヒーでも入れますね。あっ、紅茶の方がいいですか?」

私は副社長から身体を離すと、顔を合わせないまますぐにお盆を持って立ちあがり、キッチンへと向かった。

副社長に抱き締められたことでどうにか平常心を保とうとしているのに、それを阻止するかのようにドクドク音を鳴らす心臓が私を刺激する。

『美月、可愛いな』

お皿を洗いながら頭の中で何度も繰り返される言葉。
好きな人に抱き締められて、可愛いと言われ、嫌なわけがない。嬉しくて、とっても幸せで、副社長が私のことを好きになってくれたんじゃないかと勘違いしてしまいそうだ。

お皿を洗い終えた私は、コーヒーメーカーをセットしてスイッチを入れる。しばらくして、コーヒーの香ばしい匂いが部屋に充満してくると、私の気持ちも少しだけ落ち着いてきた。私は出来上がったコーヒーをマグカップに注ぐと、テーブルへと運んだ。


「副社長、どうぞ」

「ありがとう。ごめんな。コーヒーまで作ってもらって」

まるで愛しいものでも見るような目で穏やかに微笑む。

「いいえ。ごはんの後はいつも作って飲んでいるので大丈夫です」

私は少しだけ視線を向けて口端を上げたあと、マグカップに入った熱々のコーヒーを啜った。何も会話がないまま、コーヒーを啜る音とテレビの音だけが部屋の中に静かに流れる。

「なあ、美月」

その静寂を壊すかのように副社長が少し言いづらそうな表情をして私を見た。無言のまま顔だけを副社長に向ける。

「美月って……好きな奴とかいるの?」

「えっ?」

思いもしない突然の質問に、危うく持っていたマグカップを落としそうになる。固まったまま何も言えないでいると、副社長が再び口を開いた。
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