月に魔法をかけられて
「えっ? あっ、いえ、大丈夫です。私、電車ですぐですから。それに副社長のお家とは反対方向ですし」

秘書は首と両手を左右に振りながら、必死で大丈夫だと拒否をする。

「こんな時間に自分だけ車に乗って、社員を電車で帰らせる上司はどこにいる?」

俺は後にも引けず、不機嫌そうな顔で秘書にそう言った。


タクシーに乗った後、秘書は一言も話すことなく、窓の景色をずっと眺めている。俺は大きく息を吐いたあと、口を開いた。

「先週は、いろいろ迷惑をかけたな」

「えっ……?」

秘書が驚いたように俺の方を振り返る。

「あっ、い、いえ……。かっ、勝手なことをしてすみませんでした」

「いや、正直助かった。あのままタクシーに乗せられてたとしてもまた寝てしまっていただろうし、起きなかったら警察にでも連れて行かれてただろうしな」

「でしたら……よかったです……」

「それより悪かったな。あの日は誕生日だったんだろ。聡が言ってた」

「大丈夫です。気にされないでください……。わ、私も副社長の違った一面を見ることができましたので……」

「違った一面?」

「は、はい……。笑った顔とか……」

「笑った顔? 誰だって笑うだろ。普通」

「会社では見たことなかったので……」

そう答えたところで、秘書が運転手に声をかけた。
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