赤鬼と黒い蝶
「結婚前にね。父さんが『自分のルーツを探りたい』って、突然言い出して、2人で旅行したことがあるのよ。以前、斎藤道三に仕えていた女性の子孫だと名乗る方が、テレビで斎藤道三や帰蝶の話をされていてね。それで、大阪に訪ねて行ったこともあるの」

「……わざわざ大阪まで?」

「ええ、そうよ」

「母さん、その人の住所まだわかる」

「転居されていなければ、父さんの遺品と一緒に保管してあるかもしれないわ。待ってて、見てくるから」

 母はタンスの抽斗(ひきだし)から、父の遺品が入った箱を取り出し、1冊の手帳を取り出した。色褪せたカバー、手帳の紙は変色している。

「この方よ。橋本多々雄(はしもとただお)さん」

 大阪在住の橋本多々雄さん。
 この本を書いた著者と同じ名前だ。

「母さん、あたしも春休みになったら大阪に行ってもいい?」

「紗紅が大阪に?」

「あたしも確かめたいことがあるんだ。橋本さんから、斎藤道三に纏わる話を聞きたいの」

「……わかった。母さん、紗紅のこと信じてる。旅費なら母さんが出すわ。気が済むまで調べておいで」

「……母さん。いいの?」

「美濃はまだ発見されてないけど、美濃が何処かで生きている気がするの……。母さんにはわかるんだ。美濃が髪の毛を切るなんて、それなりの理由があるに決まっている……。だから、紗紅も自分の信じた道を強く生きて欲しい。必ず、ここに戻りなさい。ここは紗紅の家なんだからね」

 母は泣きながら、あたしの手を握った。
 あたしも泣きながら、痩せ細った母の手を握った。



 ――翌日、病院から信也が目覚めたとの連絡があった。

 生死の境を彷徨った信也。

 あたしは直ぐに病院に駆けつける。
 信也はICU(集中治療室)のベッドの上で、あたしを待っていた。

 その眼差しはとても穏やかで、数日前の鋭い眼差しとは異なっていた。

「信也……よかった」

「紗紅……、俺、病院を出たあとのこと、よく覚えてないんだ」

「……覚えてないの? あたしに話したこと、全部忘れてしまったの?」

「記憶障害で錯乱していたと看護師さんから聞いた。でももう大丈夫だ。全部思い出した。俺は織田信也、20歳。天下泰平の従業員で、斎藤紗紅の彼氏。あってるだろ?」

 信也はタイムスリップする前の信也に戻っていた。

「夢から覚めたの?」

「夢……? そうだな。紗紅があの世から俺を呼び戻してくれたんだ。先生も看護師さんも驚くくらい、もうピンピンしてるよ」

 危篤状態に陥っていたとは思えないほど
血色もよく明るい笑顔。

 目の前にいる男性は、織田信也。

 ――織田信長じゃない……。

 そんなはずはない。確かに数日前の信也は、織田信長だった。あたしの刀傷や、紅のことを覚えていたのだから。

 天下泰平の社長も、秀さんも、信也は織田信長だって……。

 ――織田信長は……。
 この世から……消えてしまった……!?
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