溺愛音感


水族館に限らず、動物園や美術館など、入場料がかかる場所を訪れたことがない。

日本は入場料が安いと聞いていたけれど、余裕のない暮らしを送っている身では、余分な出費は厳禁だった。


「それなら、このあと散歩がてら水族館まで足を延ばそう」

「うんっ! あ、そうだ。ねえ、マキくん。そこの水族館って、シャチもいる?」


インターネットでシャチのスプラッシュの動画を見たことがある。
大迫力で、とても面白そうだった。


「ああ。ショーもやっている。が、病み上がりのハナはダメだ。びしょ濡れになって、熱がぶり返すかもしれない」

(な……一番面白いものを見ないなんて、何のために行くのかわからないじゃないのぉっ!)

「風邪じゃないしっ! もう治ったしっ! シャチなしなんて絶対ヤダっ!」 

「ハナ……」

「マキくんがイヤなら、わたしひとりでも見る!」


わたしの全力の抗議に、俺様のマキくんも耳を傾ける気になったようだ。
渋々、譲歩した。


「……わかった。シャチのショーも見る。だが、濡れたままで出歩けば風邪を引くかもしれないから、ディナーは家で食べる。それでいいか?」

「うん。晩ごはん作るの面倒でしょ? コンビニのお弁当でもいいよ?」

「ダメだ! 多少手抜きにはなるが、今夜はうどんにする。昨夜、麺を打って冷凍してあるから、それを使う」

「え……マキくん……うどんも作れるの?」


家で食べるうどんとは、温めるだけの麺か乾麺、もしくはカップラーメンならぬカップうどんだと思っていた。


「ああ。そば打ちはよほどの時間がないとやらないが、うどんは意外と簡単にできるからな。生パスタも作れるぞ」


(マキくん、多才すぎる……やっぱり、シェフになったらいいんじゃないかな?)


美味しいごはんを食べられるのは嬉しいが、有り余る才能を無駄遣いしているように思えてならない。


「ハナ、食べ終わったか?」

「ん」


ホットドックの包み紙と空になったコーラのカップを手に立ち上がり、ゴミ箱へ向かおうとしたら、マキくんに引き留められた。


「ちょっと待て。口のまわりにアボカドがついてる」

「え」


慌てて鞄からポケットティッシュを取り出そうとしたが、いきなり身体が浮いて、何かに唇を舐められた。


「…………」


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